【20号書評】<6680字>直撃 本田圭佑(木崎伸也)

公家シンジ
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アスリートについて何か書きたいと思った。それで最近は書店のスポーツ関連書籍のコーナーを回りながらめぼしい本を物色していた。ぼくはたとえば野球だと落合博満の信者である。テニスだと伊達公子が好きである。サッカーは中田英寿のファンである。(全部古い笑) はてさてどのスポーツについて書こうかと思案したが、今回は偶然W杯の時期と重なっていたのもあってサッカーに照準を絞ることにした。書店で真っ先に目に入ってきたのは、バラ積みになっている西野朗監督の「勝利のルーティン」という本だ。パラパラめくってみたが、これはこれで悪くない。とても参考になることもある。ただ、、ぼくは監督ではなく現役アスリートのことを取り上げたかったのだ。現場から離れたところから他人をディレクションしたりマネジメントしたりする術ではなく、現場の当事者のマインドについて書きたかった。(これは言うまでもなく、アスリートとナンパ師、監督とナンパ講師という対比を念頭に置いている)。しかし現役の選手はあまり本を書いている時間がないのか、良書がなかなか見つからない。選手の語りをゴーストライターが文字起こししたような本もあったがいかんせん内容が薄くてイマイチである。それで最終的にぼくは本田圭佑のインタビュー本を選ぶことにした。それが『直撃 本田圭佑』である。スポーツ・ライターの著者がヨーロッパでプレーする本田に直撃インタビューを重ねてまとめあげたのが本書だ。このライター自身の感想や考察には特別見るべきものはないが、本田圭佑当人の口から発せられる言葉にはどれも大きな力が宿っている。時系列に沿って彼の言葉を歪曲せずに掲載してくれているというその一点だけで、この本には価値がある。

 

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ぼく自身、本田圭佑のことはほとんど何も知らないまま読み始めたが、読み進めていくうちに彼が一流のアスリートであるということが少しずつわかってきた。鍵となる概念は「身体性」「成果主義」の2つである。月並みな考察になるかもしれないけど、この2つの概念からアスリートを解剖していくことにしたい。

 

身体性(イメージどおりに動く)

まずは本田圭佑の発言の引用から。

試合前は、いいときのプレーを思い浮かべる。そして、自分がこうしたいというイメージを作る。まあ、誰しも普通にやっていることだと思います。ただ、それを偶然やっている選手と、意図してやっている選手とでは、のちに大きな開きになってくるぞ、ということなんです。メンタルのトレーニングをすれば、いくらでも課題を克服できると思う。無限ですよ、脳は

アスリートといえば身体だけ鍛え上げて頭はすっからかんの馬鹿という印象を持つ人も多い(それは多分に僻みも入っているだろう)が、筋肉に指令を出すのは結局のところ脳であり、実際は脳こそが身体動作のコントロール全般をつかさどっている。アスリートはふつうの人たちよりも意識的に頭を使ってイメージをする訓練をしている。まずはこの事実を押さえておいてほしい。

ただ、次の試合でファンボメルがこうプレッシャーにくると口で言うのは簡単やけど、意外にそれを頭に叩き込むのって簡単な作業じゃない。ぱっとイメージすることはできる。でもそれが頭に入ったのかが大事なわけで、だから繰り返しイメージしないと、洗脳されていかない。繰り返し、繰り返し、何回やれば洗脳できるのか。オレ自身もまだわかっていない

出ないこともあるからね。オランダ戦も失敗した。オレの中では準備がすべてやから。勝負の前に、だいたい勝負は決まっている。だから実際に勝てると思っているときは、ほとんど得点に絡めている

ぜんぜん暇じゃない。家にいるときが勝負。でも、何かをやっているときに、考えることはできないから。1時間でも、30分でも、そういうひとりの時間を作らないといけない

何かをパッとイメージするだけなら誰でもできるかもしれない。だけどアスリートは身体性を高めないと話にならない。身体性を高めるとはつまり、自分のイメージどおりに動くということだ。そのためには何度も何度も細かくイメージすることが必要になる。本田選手自身はそれを「体と脳の連動」と呼んでいた。素振りひとつにしても、そういうイメージをしながらやるのと、ただ漠然と振るのでは上達の度合いが全然違う。ましてや相手がいる競技ならば、起こりうるシチュエーションは実質上無限にある。どんな球(セリフ)が返ってくるかわからないようなときは、どんな球が返ってきても大丈夫なように事前に繰り返しいろんなイメージをして準備しておく。そうすることで初めて本番に身体が瞬発的に反応できるようになるということ。口で言うのは簡単だが、多大な時間と集中力、そしてもちろん経験とを要することだろう。

 

オレはいつも自分のビデオを見返してて、どんだけ下手やねんと思っているし

ただし、気づいただけじゃアカンし、イメージしないとアカン。繰り返しね。そこに到達するための逆算方程式で、何をしなきゃいけないのかのトレーニングをプランニングして、それを実践する行動力が必要になってくる。そして、そのための行動が何よりも難しい作業になる。すべてのものを犠牲にして、すべての時間を犠牲にしてトレーニングに費やすことができるのか。食べたいものを我慢して、食べないといけないものを食べる勇気があるのかとか。ホント細かいこと。遊びたいのを我慢して、睡眠の時間に費やす。次のトレーニングに費やす。当たり前のことだけど、これは真面目でもなんでもなくて。別に自分のことを真面目やと思ったことはないし。あくまで勝利への執念というか。自分の目標のためには当たり前のこと

彼は実際の自分の動きの確認も淡々とやっている。主観的なイメージと客観的な動きの摺り寄せは身体性を高めるためのベースになる作業なのだろう。そのうえで、イメージの通りに身体を動かすのには緻密な逆算の思考が必要で、おそらくスポーツ科学の知見を利用したような専門的方法論なんかもたくさんあるのだろう。しかしともあれ、身体性を高めるために自分の全リソースを費やすという覚悟をもつのがアスリートなのだろうと思う。

 

オレが使っている言葉が正しいかどうかは別にして、洗脳って漢字で書いたら、洗う脳ってなる。あえて言うなら、『自分宗教』みたいなもの。自分の哲学を繰り返しイメージすることで、頭の中に出てくるようにする

一年後の成功を想像すると、日々の地味な作業に取り組むことができる。僕はその味をしめてしまったんですよ

身体動作だけではなくて、将来の自分像や哲学すらもどんどん精密にイメージしている。イメージする力は未来への大きな原動力にもなっているみたいだ。このへんはいかにも自己啓発本なんかに書かれていそうなことだけど、ただこのイメージするっていうのは明確に技術なんだろうなと思う。スピードを上げれば上げるほど瞬発力を求められる車の運転と同じような。

 

 

成果主義(責任の捉え方、挫折との向き合い方)

ふたつ目の概念について。まずは彼の言葉を引用していく。

W杯では結果のことしか考えていなかった。9割攻められようが、どれだけ恰好悪い内容であろうが、あのときは勝ちたかったというのが、今終わって言えるあのときの正直な気持ちです。どんな形でも勝てればよかった。

スポーツの特徴は目標が明確なところである。決められたルールの中で勝つ。以上。過程はどうあれ勝てばOK. この目標を達成することだけがすなわち成果である。とてもシンプル。今回のワールドカップ日本代表の3戦目では、決勝トーナメントに進む(大きな意味で勝つ)ために後半に(小さな意味で)勝つ気のないパスを回した采配に賛否両論が巻き起こったが、これは論者がどれだけ成果主義者であるかを測るいいベンチマークになったように思う。成果主義者にとっては(大きな意味で)勝つことだけが成果なのだ。なぜ成果にここまでこだわるのか。なぜ「精一杯努力はしたんですが負けてしまいました」ではいけないのか。それは、成果を示すこそによってのみ周りから次の機会を与えられるからだ。機会というのは常に他人から与えらえる。他人を納得させるのはわかりやすい成果なのである。だから持続的な活動を目指すのなら、必ず成果を出し続けないといけない。

ともあれこれだけ目標がシンプルなら、他の事にグジグジ悩まず目標の達成に専念できる。成果の獲得に専念するために途方もない努力ができるようになる。成果こそが全てだと捉える発想が、その成果に至るために必要な技術を飛躍的に向上させる。

 

いやいや、もうそれは話しても言い訳にしかならないから。結局ノイアーの瞬発力が勝ったということ。サッカーというのは、チャンスを止めるか止めないか、決めるか決めないかで勝敗が分かれるということにすぎないしね。あれこそが今まで俺がさんざん言ってきた『個』。結局俺が個で負けただけの話。どんな相手にも決める選手にならないと

成果主義であるということは、結果を一目瞭然で判断できるということである。「負けてしまったけど日々頑張って本番に備えた自分の努力だけは評価したい」なんていうのは、成果主義の世界では最低レベルの言い訳であり慰めである。アスリートの風下にもおけない。どんなにひどい結果であっても、その結果を受け入れるということがスタートラインになる。

 

オレは自分が言ったことに責任を持っているし、言った以上は絶対にそれを成し遂げようと思ってるから

自分が言ったことの責任もありますし、とにかくこれが現実なのでね。非常にみじめですけど、すべてを受け入れるしかない。当然ながら僕の言葉の信用度は下がると思いますが、また一からこの悔しさを生かしたい。ただ自分にはサッカーしかないし、自分らしくやっていくしかやり方を知らない。これからも、というか明日からですね。また前を向いて進んで行きたいと思います

日本サッカーを背負って戦って来たわけですから、いろんなものを失う可能性がある。それを取り返すためには、結果を積み重ねるしかない。またみなさんに日本代表という船に乗ってもらえる日が来ることを信じて、日々精進していきたいと思います。

そして結果に対する責任を負うということ。これこそが自分自身を飛躍的に成長させる最短の道なのだろう。一流のアスリートは自分自身のために「責任」という概念を利用する。あえてビッグマウスで目標を公言する。自分が背負えないくらい大きなものをあえて背負う。他の誰のためでもなくまずは自分の成長のために背負う。本来なら別に日本を背負わずにのびのびと楽しくサッカーをしたっていいわけで、それをあえて日本を代表して試合に出る。そういう巨大な負荷を自らに課すからこそ日々の地味で過酷なトレーニングをきっちり遂行できるのだろう。

これは別に日本代表レベルの大きな責任の話ではなくて、どんな小さな発話にだって責任は宿ると捉えることもできる。小さな公言や約束を一個一個守っていくことで、周りの人が「ああ、この人は有言実行の人なんだな」と判断するようになっていくと、あなたの信用は高まっていく。その信用があなたにのしかかる負荷になる。その負荷があなたの成長の原動力になっていく。

人と言うのは1人の力だけで成長するのには限界がある。賢明な人間は周りを巻き込んで成長する。時に厳しく監視され、時に温かく見守ってもらいながら。そうやって周りからケアされ、信頼関係を築いていきながら育ててもらうのである。

 

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挫折との向き合い方についても触れておきたい。成果主義者にとっての挫折とは目標を達成できないことである。とてもシンプルだ。未来についてどれだけ精緻に繰り返し繰り返しイメージを重ねて、それについての準備を綿密にやっていても、実現しないこともある。本田選手はこれまでたくさんの大きな挫折を繰り返しながらやってきた。

挫折をわかっている人間は、何が本当の成功なのか、どうやったら挫折を乗り越えられるのかをわかっている気がする。逆に順調に来たやつは、大人になってずっこける可能性がある

やはり一番・・・考えてつらかったのは、4年間正しいと思ってやってきたことを、結果として否定せざるをえなくなったことだった。負けたうえに内容に納得がいく試合ができなかったわけですから。また一から自分のモノサシ作りをする必要がある。それくらい追い込まれている。過去にいちど

これこれ。これなんだよ。成果主義でやってる人は、一瞬のうちに全てが無になってしまう危険を常にはらんでいる。今までコツコツ投下してきた時間やエネルギーがなにひとつ報われずに泡沫に消えてしまう。それはまるで大空襲を食らった東京の焼野原のように。どんなに焼野原にされても、挫けずに、また何度でもゼロからスタートしようと思えるかどうか。そういうファイティングスピリットが心の底の底からふつふつと湧き上がってくるかどうか。これは究極は、自分自身が、人間の可能性を、どれだけ信じられるかということに関係している。「ドン底だけど、(希望)」ではなく、「ドン底だからこそ、(希望)」という発想。公家用語で言うところの「反転のアティテュード」。これはアスリートだけでなく、誰もが生きていく中で最も大事なものだとぼくは思う。これを失った人間から順々に死んでいく。

 

 

読後の雑感:知性とアスリート性

もちろんぼくはナンパとの関連において本書を読んでいた。サッカーがゴールの枠内にボールを突っ込むことを目的とする遊びであるのと同様に、ナンパもたかだかマンコの枠内にチンコを突っ込むだけの遊びである。どちらの活動もスターを輩出し、どちらの活動も男たちを魅了する。ただサッカーは世界中から身体能力に恵まれた選手たちがしのぎを削ってトップを目指すレッドオーシャンであるのに比べて、ナンパは競争という意味ではまだまだ生ぬるい。

いずれにせよ、スポーツとしてナンパをとらえるという意識を持った人たちは短期間で飛躍的にその技術を上達させている印象がある。彼らは外部の情報を身体で捉えてその場その場の状況において瞬発的に身体の微調整をする(身体性)。また目標が明確でその達成のためだけに努力をし成果に対しては周りに責任を負う(成果主義)。ここでは、この身体性と成果主義のふたつをまとめて<アスリート性>と呼ぶことにする。

反対にスポーツ(ナンパ)が苦手な人というのは、おうおうにして頭デッカチ(ここでは仮に知性と呼んでおこう)であることが多い。彼らの特徴は知識をインプットすることにある。ただし頭デッカチであることとアスリート性があることは本来ならば矛盾しない。これは単に使う脳の部位が違うだけの話だ。たとえばぼくはナンパをしている時期は意識が常に外に開いていたし、読書をしているときは自分の中に閉じこもっていた。両モードの切り替えさえきっちり行われるなら頭デッカチでもナンパは上達するのだが、これは難しい。頭デッカチの人間がスポーツ(ナンパ)を手っ取り早く上達させる道は知識のインプットをやめることだろう。知識を入れただけで分かった気になってしまうと身体性を研ぎ澄ますことに対する興味を失ってしまう。それは喩えるなら、地図を見ただけで現地に行った気になってしまうようなもので、とても愚かなことである。さらに地図情報をインプットしただけで旅行記なんかを書きだしたら周りにとって有害にもなる。頭でわかっていることと、身体で対応できるということは、全くの別物であり、スポーツというのは後者が全てだということ。

知性を持ったインフルエンサーというのがどの分野にもいて、インターネットの世界では彼らの扱いは非常に厄介である。彼らは豊富な知識や論理の明晰さ、説明の切り口の斬新さなどで頭デッカチな読者の膝を打つ。だが何かしらの技術を身につけるという観点においては、注目するべきポイントは知性ではなくアスリート性なのである。知性に踊らされるマヌケにはアスリート性の有無が見抜けない。アスリート性の重要さを認識していない。ぼくはこれまでセミナーなんかでも何度も何度も警鐘を鳴らしている。だけどアスリート性に注目するというのはやっぱり難しいみたいだ。たとえばぼくはナンパ界隈で、知性とアスリート性の両者を兼ね備えたインフルエンサーをひとり知っている。彼のファンだという人にはこれまで何人も会ってきたが、そういうファンがアスリート性を持っていたためしがない。皆例外なく鈍重な小賢しいボンクラ。そして知性のない人間を見下して斜に構えている。彼らはそのインフルエンサーの知性を崇拝しているのだ。馬鹿め。知性に憧れるものは、知性に目をくらまされてはいけない。インターネットの世界において、知性というのは広告費みたいなものである。それは実際の商品の性能とは直接的には何の関係もない。彼の人の真価は知性ではなくアスリート性にこそある。刮目せよ。以上。