【22号書評】<5840字>人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている(ふろむだ)

公家シンジ
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自分語りから始めることをお許し願いたい。今から10年ほど前、『分裂勘違い君劇場』という挑発的なブログがはてな界隈でよく話題になっていた。ブログ主はfromdusktildawnというIDの謎の人物である。非定期にアップされるエントリーでは必ずエッジの効いた長文の極論が展開されていて、それがいつもたくさんの人々の関心を攫っていた。当時20代前半だったぼく(死にかけ)は熱心な読者というわけではなかったが、それでも上がってくるエントリーを読んでいくたびに、ブログ主に少しずつ感情移入するようになっていた。

彼のブログはいつも冷徹な目で現実を眼差していたが、そこにはいつも弱者に対するいたわりが隠れているように感じた。心理学や歴史学のような人文の学問、マネジメントやマーケティングのようなビジネスの知見、統計学やデータサイエンスなどを駆使して世の中に存在する問題を斬りこみ独自の極論を展開する。それがどんなアホにでも理解できるような平易な語り口で語られていて、世の中にはすごい人がいるんだなと舌を巻いた。SNSで彼が交流していたのは、極めて胡散臭い内科医のオジサンや、大正時代の文化ことをひたすら研究しているオジサン、それからインテリぶったオバサンの取り巻きがいた記憶がある。とにかくそれは異質な集団だった。彼らは皆匿名で、在野の知識人が秘密結社を組んで世の中の研究をしているというような感じだった。ぼくもこの結社に入って対等な立場で交流できれば幸せに違いないと強く思い彼のSNSにもこっそりと参加したりしたが、結局ぼくが彼に話しかけることはなかった。ぼくには手持ちが何もなかったからである。そうこうしているうちに少しずつ彼はネットと距離を置きだしていつのまにか消えていった。ブログの更新も途絶えてしまった。ぼくはいつしか彼の存在を忘れてナンパの日々に没頭するようになる。

その彼が、ふろむだという名義で最近本を出したらしい。彼は完璧主義者である。何かを世に出すなら絶対に渾身のモノを出してくるはずだ。コンセプトは独創的で細部の構成に至るまで様々な仕掛けがなされているにちがいない。もしかしたら現在のぼくの知見を軽々と超えたものを出してくれるかもしれない。だけどそうじゃなくてありきたりのものだったらどうしよう。いろんな不安と焦り、それから期待に混乱しながら、とにかくぼくは待った。彼のこの10年間の成果を。あれからぼくも等しく10年を消化し、泥沼の20代をなんとか乗り越えてたくましく生きてきた。今ならば彼と本を通じて対等に交流できるだけの実力がついたかもしれない。ぼくは彼に挑戦するかのようにこの本を読んだのだった。

 

 

そうしたら、この本は、なんと、そんな<実力>の価値を、根本から否定するような本だったのだ。前置きが長くなったが、今回はその彼の著書『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』を書評させてもらうことにする。

本書はいかにもふろむだ先生らしく、全体を通じて緻密に計算された構造になっている。イラストや改行が多用され、また一貫して平易な語り口で、普段文字を読まない人の頭にもスッと自然に入っていくような工夫がなされている。冒頭からの5章分はふろむだブログにて無料で公開されているので、まずはこちらから試し読みしてみるのもいいだろう(実はこの横書き無料版が一番読みやすかったする。)
https://www.furomuda.com/entry/2018/08/04/011000

 

錯覚資産とは

本書の最大のキーワードは『錯覚資産』である。

錯覚資産というのは、平たく言うと「成果」のことである。正確に言うと、顕著な成果を示した時に他者に与える心理的な影響のことである。成果を示すと周りは勝手に「この人はなんかスゲえ人だ」と勘違いを起こす。その成果が本人の実力によるものであるかどうかは関係がない。上司や同僚、部下や顧客のおかげで達成できた実績だったとしても「スゲえ」という錯覚は起こる。この錯覚によって彼は周りからよりよい環境を与えられやすくなる。次の仕事の機会も与えられやすくなる。そうして結果的にさらなる成果を得ることができる。

というのが本書のあらすじである。

錯覚資産が実際にどのように機能するのかをここでいちいち説明するのはやめておく。それは本書を読んでほしい。ここではすべてを言い表した画像を一枚引用するに留めておく。

 

人が社会的成功を収めるのに大事な要素は<運>なのか、それとも<実力>なのか?

そのような問いかけがこれまで幾度となく行われてきた。

たとえばルネサンス期の戦略思想家マキャベリも同じようなことを言っている。ヴィルトゥ(内的要因=実力)かフォルトナ(外的要因=運)か。そうしてフォルトナは自分ではどうしようもないからヴィルトゥを積み上げろというありきたりな結論に至っている。

現代でも多くの成功者や指導者は<運>と<実力>の二元論から一歩も脱し切れていない。「コツコツと実力をつけていくしか道はない」と宣う人は多いが、少し周りを見渡せば、実力がなくても金持ちになっていたりモテていたりする例は枚挙にいとまがない。彼らが成功したのは運がよかったからだと片づけるのも、それはそれで歯切れが悪い。われわれは結局「運」という風雨に耐えながら「実力」なる漠然とした概念をコツコツ積み上げるしかないのか。

ふろむだ先生はそういった局面で、新しく「錯覚資産」と呼ばれる概念を持ち出して、実力主義の嘘を暴き出してしまった。

「実力」が社会的成功の大きな要因ではない。

「錯覚資産」こそが一番の要因であるのだと。

 

ナンパから紐解く錯覚資産の具体例

ナンパに関連した事物にはわかりやすい錯覚資産が多いので、例示してみよう。

まずは女の例から。

女の保有する錯覚資産は言うまでもなく外見である。美しさで人の目をひくことで女はどれほどの恩恵を得ているか。計り知れない。女の内面には興味のない男だって、彼女たちの外面の美しさには抗えない。美しさは職業を得ることすらも有利に働く。多くの企業は公言こそしないものの、美しい女を優先的に採用している。女は「美」が錯覚資産であるということを経験的に知覚していくのだろう。感度の高い女たちは思春期を過ぎたあたりから化粧を覚え下着をつけることを覚え、自らのセックスアピールを男たちに売り込んでいくことを覚えていく。どのような仕草や振る舞いが男たちをしかもイケてる男たちを惹きつけるのか。そういうことを学んでいくのは彼女たちの生活にとって非常に大切なことである。大人になると美しさに陰りが見え始めるが、都会の女たちはエステや脱毛・ヘアサロンに足繁く通い、自らの美しさを維持することに忙しい。そうした錯覚資産から得た恩恵で、さらに自らの外見への投資をする。宝石やブランド物のバッグを身につけ、経済的社会的に影響力のあるオジサンたちで自分を囲うようになる。注意するべき点はひとつだけ。美という錯覚資産の価値は一度身体を許してしまった男には半減してしまうということ。賢明な女たちはその点にくれぐれも注意しながら都会の荒波をたくましく生きている。

女の外見がなぜ錯覚資産かというと、「美しさ」がそれ単体で何かを生み出すことなどありえないから。「美」はただただ男の脳みそをハイジャックする機能しかもたないのである。美人だからといって仕事が特別できるわけではなく、子育てに向いているわけでもなく、セックスがいいわけでもない。だがそれでもわれわれは美人の尻を追いかけることに抗えず、ブスには見向きもしない。「ブスとは一緒に仕事したくない」と公言する正直な男も多く存在するくらいである。

 

次はナンパビジネスの例。

ナンパビジネスにおける錯覚資産の際たる例は、即画像だろう。動画ならなおよい。なんせインパクトがある。そうやって即画像をアップすることで、フォロワーからの注目を効率的に集めて、「なんかよくわからないけど凄い人だ」というブランディングをすることが容易になる。「女のハメ撮りをアップするなんてサイテーのクソ野郎だ」と批判する男たちですらも、裏ではその動画でオナニーをしてたりする。われわれは女の裸には抗えない。そういう代物なのである。(ちなみに誤読の可能性があるので書いておくが、その画像が捏造されたものかというのはここでは問題にはしていない。錯覚資産というのは捏造していようがいまいが機能するのである)

フォロワーからのアテンションを集めて自らの凄さを存分にアピールした後は、パッケージングされたノウハウらしき何かを販売する。もちろんナンパノウハウとは直接関係のないコンテンツを売りに出すのも有効である。そしてある程度の集客ができるようになると、今度は喜々としてそれがどれくらい売れたかということを誇示するのである。これがまた大きな錯覚資産になる。

 

実力のある人間が、モテるわけではない。価値を提供できる人間が、選ばれるわけではない。そもそもわれわれには人の真価を測る目などない。だからわかりやすいものに飛びついてしまうのである。ちなみにPUAの世界には「女からモテる最高の方法は女からモテることである」という有名な格言がある。恋愛工学の世界でも「モテスパイラル」という言葉があるらしい。これも錯覚資産の存在をうまく表現した例だろう。

本書ではさらに進んで、こう断言する。いわく「錯覚資産はべき分布する」と。これは現実の社会構造をそのままきりとった記述であり、このステートメントには思想など何一つ入る余地がない。どうだい、泣きそうにならないか?

 

著者のメッセージ

人間を啓蒙することで、錯覚をなくそうと努力することは不毛だ。

とふろむだ先生は主張する。強調しておくが「困難」なのではなく「不可能」であると彼は言っているのである。「これからおれは美人だからといって特別扱いなどはしないことにする」という決意は虚しく崩れ去るし、空虚なブランディングをしてゴミのような本やNoteを売りさばく連中のカラクリを暴こうとする行為も徒労に終わる。彼はそう断言しているのである。意識して心がけるというアイデアは功を奏さない。われわれは錯覚資産の効果からは逃れられない。自己をどれだけ啓発したところで、人はありのままの状態を見ることはできない。だからこそ、

脳が持つこの構造をうまく活用して、他人の錯覚資産を批判するのではなく、自らも積極的に錯覚資産を作っていくほうが、はるかに現実的である。

と彼は結論づけている。

 

読後の感想

以下に書くことはぼく自身の思いが彼に強く投影されたものになっているかもしれない。

錯覚資産のことを「信用」だと言いつくろう人は、「人の判断を誤らせる、空虚なハリボテ」に「信用」というラベルを貼って、「立派なもの、尊敬に値するもの」に偽装して、人々から尊敬を得ようとしているのだ。

控えめに言って、卑劣だ。

彼は錯覚資産をこれまでずっと憎んできたのではないかと思う。憎んでいたからこそ、自分の憎しみの対象を強迫的に解体せざるをえなかったのだ。彼は生粋の機能主義者である。どういった要因が実際に機能して人々を動かし、どういった要因は機能しないのかということに強い関心を払い、見極めようとしてきた。たとえば彼は「錯覚」と「欺瞞」とを明確に区別した。そうやって納得のいくまで解体が済んだときに初めて、この理不尽に見える現象に対する憎しみが消えたのだと、ぼくは推測する。そうしてかつては自分が憎んだこの資産を最大限に有効活用して生きていくということが、一番合理的な選択なのだというふうに結論づけたのだろう。なんという皮肉だろうか。それはまるで「愛などいらぬ」と叫んだサウザーのような。だがそれこそが成長というものに違いない。成長というのは自らの手で解体しきった先の覚悟や諦念として必ず表れるのである。

 

ふろむだ先生は最後に読者に対してかなり啓蒙的なアジテーションをして締めくくっている。

あなたには、普通の人に見えないものが、見えるようになった。
世界を形作る錯覚の骨格が見えるようになったのだ。

あなたは、今や、自分の紡ぎ出す言葉に、力を宿す方法を知った。
自分の言葉に力を与える錯覚の魔法を知ったからだ。

酔った人間の群れの中で、あなただけがしらふなのだ。
狂気の人間の群れの中で、あなただけが正気なのだ。
目をつむった人間の群れの中で、あなただけが目を開けているのだ。
夢を見ている人間の群れの中で、あなただけが覚醒しているのだ。

彼はやっぱり生粋の機能主義者なのに違いない。人は現実だけを語られると白けてしまうのだということを彼はよく知っているのだろう。目いっぱいの真実の中に小さじ一杯分の嘘をさりげなくまぜておく。読者を行動に駆り立てるような優れた作品というのは必ずそういう構造を持っていることを彼はよく知っている。野暮かもしれないが、ぼくはここで彼の企んだトリックの種明かしをしておきたい。

見えるようになったのではない。
読者はただ本を読んだだけだ。

しらふなのではない。
読者は覚醒しているふりができるようになるだけである。

本の中でどれだけ錯覚資産の存在を示されて、それの有効性を滔々と説かれても、それを活用することに心理的抵抗がある人が活用に至るようになるためにはあとひとつピースが足りない。覚悟である。覚悟は実際の解体作業を通じて培われる。「愛などいらぬ」と叫べるのは、愛を求めて自らの手でえんえんと愛を解体してきた人間だけであり、「錯覚資産を活用しよう」と叫べるのは、実力主義の欺瞞を憎んでえんえんと解体してきた人間だけである。

くれぐれも、強い、美しい、豊か、健康、賢い、などの現実世界におけるプラスの価値自体を、自分の脳内で否定したりしないように、注意深く自分の無意識を見張る。

「プラスの価値はすべて利用資源であって、それを否定すると損をする」と自分に言い聞かせる。

自ら解体してきた者だけが至れるこういった覚悟というものがある。そしてそれは御本を読んだだけの人間には死んでも至れない境地だ。だからこそ彼は最後に恥ずかしくなるようなアジテーションで本書を締めくくって、彼らの行動を促そうとしたのだろう。幻想の解体というのは極めて個人的な行為なのですね。ああ、ふろむだ先生と飲みに行きたいです。