【19号書評】<7400字>道楽と職業(夏目漱石)/教育の目的(新渡戸稲造)/後世への最大遺物(内村鑑三)

公家シンジ
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今回はインターネット(青空文庫)にて無料で読める講演の文字起こしを3つ紹介したい。今月は2つレビューを書いている余裕がないので、まとめて3つを紹介してまとめあげるということでご容赦いただきたい。繰り返すが、御本ではなく講演である。

 

『道楽と職業』夏目漱石(1867~)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/757_14957.html

『教育の目的』新渡戸稲造(1862~)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/757_14957.html

『後世への最大遺物』内村鑑三(1861~)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/519_43561.html

 

前号の福澤せんせいに続く明治期の自己啓発シリーズ。これら3つの講演に共通するテーマは『仕事』である。今から100年ほど前の日本では仕事が人々からどういうふうに捉えられていたのかがなんとなくわかってくる。ただ三者三様に仕事の捉え方は違うので、そのあたりの違いを感じながら読んでもらえたら楽しめるかなと。いつも恋愛やセックスのことばかり取り上げていてはバランスが悪い気がしたので、箸休めとして仕事を取り上げてみた。ただ箸休めとはいうものの、仕事の問題は異性の問題に密接に関連していることも多い。ま、気楽に読んでみるのが一番。

 

道楽と職業(夏目漱石)

まずひとつ目。夏目漱石は旧1000円札の人として日本では知らない人はいないくらいの知名度を誇る小説家だが、彼について顔や小説タイトル以上のことを知っている人はとても少ない気がする。小説を数冊読んだことはあるけど全然ピンと来なかったという人も多そうだ。しかしそういう人にこそ講演をオススメしたい。講演録だと『わたしの個人主義』のほうが有名で、彼が自らの文学に向き合うにいたった経緯とそのアティテュードを知ることができる。https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html

こちらの『道楽と職業』のほうはもう少しライトで肩の力の抜けた語りだ。序盤は、学生たちが就職難に陥っている話から始まる。長く時間とお金を投入して高等教育を受けてきた多くの若者たちが自分に納得のいく働き口を見つけられなくて困っているのだと夏目漱石は言う。これは明治に入って職業が細分化され複雑になってきたからだそうだが、現代であってもその状況はあまり変わらない。

だから大学に職業学という講座があって、職業は学理的にどういうように発展するものである。またどういう時世にはどんな職業が自然の進化の原則として出て来るものである。と一々明細に説明してやって、例えば東京市の地図が牛込区とか小石川区とか何区とかハッキリわかってるように、職業の分化発展の意味も区域も生臼井も一目の下に瞭然会得できるような仕掛けにして、そうして自分の好きな所へ飛び込ましたらまことに便利じゃないかと思う。まあこれは空想です。

そして上の発言。彼は職業をある意味結婚と同じように考えていたようで、「女についていろいろ学んでいく中で自分の好きな女に出会う」みたいなノリでいろんな職業のことを知ることの重要性を語っていた。この提案自体は至極まっとうだが少々概念的で頭でっかちな感じはする。さらに彼は口では「若者の就職難も困ったものだ」などと言い、実際に身の回りの学生たちの就職あっせんなどもしてあげていたようだが、社会問題としてそれをどうにか解決しようと実際に首をつっこむようなことは決してしなかった。どちらかというとあまり興味のないことだったに違いない。

それは一旦置いておく。中盤からは「他人のためにすることはすべからく職業になる」という明解な主張を展開していく。世の中にはたくさん職業があるがそれらはすべて人様から求められたものだから成立しているのだと。以下の発言がアツい。

人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短に述べれば人のご機嫌を取ればというくらいの事に過ぎんのです。

世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。

ようするに「この欲求は低俗だからそれに応える行為は職業にならない」とか「この欲求は高尚だからそれに応える職業はより多くのお金を得るべきだ」とかそういった考えは論外であると。むしろたくさんの人が持っている欲求を満たしたほうがたくさんのお金を貰えるのは自然の成り行きであると言っている。今の世の中を見回してみても、全くもってその通り。資本主義を的確にとらえていらっしゃる。

また、職業が増えて世の中が分業制になっていくにつれて必然的に人々の能力はどんどん専門的にならざるをえないのも問題だという。つまり自分の職業に関することにはとても精通しているけれどもそれ以外の生活に関することには無知で無力なカタワになっていく。夏目漱石はそうやって人々がカタワになっていくことに警鐘を鳴らしている。そして終盤では「職業=他人本位」という図式の対比として、「道楽=自分本位」という図式を展開していく。自分本位で行う活動(道楽)で金を稼げるかどうかは運次第であるけど、自分本位でなければ決して成立しないような仕事も必ず存在するのだと。彼はそういうふうにして職にまつわる世の中の現象をひととおり説明するだけして、特に強い主張をすることなく講演を締めくくっている。

 

夏目漱石の職業観はとてもシビアで現実的だ。無機的な資本主義のメカニズムを熟知している。彼はこのように洞察鋭く世の中全体を俯瞰することにはとても長けていたが、自身はそういう世の中を他人本位になって渡り歩いていけるほど図太くはなかったのか、職業人としての道を捨てて道楽人を生涯やる覚悟を決めたのだった。表向きは強い主張こそなかったが、彼は自分本位の道楽の道を信じて突き進んでいる。だからこそ職を求めててんやわんやしている学生たちのことがどこか滑稽に思えたのだろう。彼の職業教育に関するアドバイスが総論に留まっていてどこかしら薄っぺらいのはそういうわけにちがいない。

 

教育の目的(新渡戸稲造)

ふたつ目。新渡戸稲造も激動の明治を生きた人で、何をした人かというとちょっとうまく説明がしづらいが、思想家でありながら教育事業を中心に様々な実務を担当した人だ。日本では旧5000円札の人ということで夏目漱石のちょうど5倍の人気がある。海外では「武士道」を紹介した人としてよく知られている。『教育の目的』は彼の講演のひとつで、教育はいったい何を目的にして為していけばいいのかということを説いている。

彼は教育の目的の第一義を「職業を獲得させること」に置いている。夏目漱石はその方法論を空想として語るに過ぎなかったが、新渡戸稲造は職業教育に実際かなりのエネルギーを投入している。思想家であるとともに現場の実務家であるといったのはそういう意味だ。とりわけ以下の主張がアツい。

一体職業なるものは、各自が心に存する力を発達せしむるのが目的であるのに、それに程度を定めて、これ以上発達せしむべからずと断定したり、あるいはその程度で以って押えるのは甚だ忍びないことである。けれども職業の教育になると、これを定めねばならぬ。

教育というものは程度を定め、これ以上進んではならぬといって、チャンと人の脳髄を押え付けることのできないものであるからだ。

何かの職業の専門家になるというのは他の分野の能力を制限するということ、つまりカタワになることに他ならない。ここまでは夏目漱石も似たようなことを言っている。新渡戸先生はこれにくわえて、ひとつの職業に自分自身を定住させるというのは自分の心をもあえて縛り付けることだとおっしゃっている。人間の心というのは本来自然にどんどんと発達していくものなのだが、その心の自然な発達を阻害してでも職業をひとつに定めて固定してしまうことが教育なのだと。ただし頭ごなしに縛り付けても絶対にうまくはいかないということもおっしゃっている。これはとても強い主張である。

そしてさらにここからの主張展開がアツい。新渡戸先生からはこういった強い意志とともに柔軟な態度も持っていらっしゃる。職業選択の問題について、少し長いけどぼくがもっとも刺さった部分を1段落まるまる抜粋しよう。

少年が大工になろうと思って工業学校へ入るとする。然るに彼らは工業学校を卒業した暁に大工をやめてしまい、海軍を志願する、かかる生徒が続々出来るとする。すると県知事さんが校長を呼んで、この工業学校は、文部省から補助金を受けているとか、あるいは県会で可決して経費を出しているのであるとかいい、その学校の卒業生にして海軍志願者の多いのは誠に困ると、知事さんらしい小言をいう時にはどうであるか。「お前は海軍の方へ這入り、海の上の大工になろうというのでもソレはいかぬ。大工をやるはよいが、海上へ行ってはいかぬ、陸上の大工に限る」とチャンと押え附ける事が出来るか、それは決して出来ない。日露戦争に日本の海軍が大勝利を博し、東郷大将が大名誉を得られた。明治の歴史にこれほどエライ人はないということをば、大工の子供も聞いている。それに倫理の講堂では、一旦緩急あらば、義勇公に奉じ云々と毎々聞いている。それで彼らが、これは陸上におったて詰らない。小屋だの料理屋だのを建てているよりも、おれも一つ海軍に入って、第二の東郷に成ろうという野心を起すことがありとしても、それは無理がない。そこで育の字だ、この上の方の子が美味の肉を喰おうと思い、此方へ向いて来るのもまた当り前である。それをこちらへ向かせまいと思ったら、あちらの方にも一つ美味しい肉を附けて、大工は東郷さんよりもモウ一際エライぞということを示さねばならぬ。ところが大工が東郷大将よりもエライということはちょっと議論が立ちにくい。ヨシ立ったところで子供の頭には中々這入らない。止むを得ない、社会の趨勢で、青年がドウしても海軍に行きたがるようになった時には、これを押え附けることは出来ない。けれどもその局に当る教育者が、なるたけ生徒をその職業の方に留めたいなら、その職業の愉快なること、利益あること、しかもただ個人のためのみの利益でない、一県下、一国のための利益だ、公に奉ずる道だということをよく教えねばならぬ。ナニ大工学だ、左官学だ、そんなものは詰らぬといって、馬鹿にするようではいかぬ。けれども世人が軍人軍人といっている間は、皆軍人に成りたいのは無理でないから、それで我々はお互いに注意して、職業に優劣を附けないようにせねばならぬ。

これが現場の難しいところだろう。今号で「長期恋愛の要は教育である」と言った流星氏の主張とも被るところがある。彼は「子どもというのはほめられるほうへ行きたいものだ」とか「日本人というのはおだてに弱いものだ」というようなことを根拠に持ち出して、若者たちを柔軟に誘導していくことを推奨している。植物でいうところの添え木のようなものだろう。

世の中には夥しい数の職業があり、それらに対する表層的なイメージがある。そういう表層イメージによって若い人たちは憧れの感情を爆発させ、憧れの感情は自分自身の状態を見失わせる。その職業につくのに自分をものすごく曲げているということに気づけなくなることもある。自分をものすごく曲げないとその職業に就けないというのはすなわちその職に対する適性がないということだ。夏目漱石本人は少しでも自分を曲げるくらいならたとえわずかな収入であっても自分本位の道楽人でいくと決めたが、新渡戸稲造はもう少し現実的な折衝点を探っていくことを薦めているようにみえる。そして教育というのはそのためのサポートの役割があるのだと。彼の論じる各論をもっと聞いてみたかった。

 

後世への最大遺物

みっつ目。内村鑑三も上述の2人と同世代の思想家だ。というか新渡戸とは同じ大学の同期である。この講演では仕事のことを職業という括りよりもっと広い概念でとらえている。職業は持続的なルーティンの対価として金銭を得てそれによって生活を回していくことが必須条件になるが、仕事は必ずしもそうではない。一回限りの行為であっても世の中に何かいいものを遺したのであれば、それは仕事になる。そういう考えだ。新渡戸先生よりも頭でっかちで理想論的な感じがするが、自分自身の信じる思想に賭ける情熱の量は半端ではない。思想家というのは本来そういうものだろう。

それで、彼は仕事として何を遺すべきだと言っているかというと、「金」「事業」「思想」を挙げている。ただ「金」や「事業」の重要性に触れているのなんとなく建前のようにも見える。彼は歴代の有名な投資家や事業家たちを褒めたたえはするのだが、実際の彼の関心は「思想」を遺すほうに寄っていたのではなかろうか。内村先生自身は金や事業を遺す才をからっきし持っていおらず、彼の人生を眺めてみると、いつもギリギリの生活をしながら、周りの人々と軋轢を起こして職や住居を転々としている。そうしてその中で自らの思想を少しずつ洗練させていっているような感じ。夏目漱石が言うところの「道楽人」だと言えなくもない。

そして本書の一番強い主張として、人間ができる仕事として最高のことは「勇ましい高尚なる生涯」をおくることであると言っている。つまりどうやって生きているのか(ぼくの言葉でいうとアティテュード)というのは間違いなく周りの人たちに影響を与えるし、そうやって周りに受け継がれていくものこそが最も尊いものであるということだ。文字で語るんじゃない、背中で語れと。

しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。

童貞だ、インポだ、不細工だ、躁鬱だ、金が無い、頭が悪い、背が低い、持病がある、ハゲている、学歴がない、友達がいない、家族がクズだ、アル中だ、アトピー持ちだ、コミュ障だ、トラウマがある。これらの障壁は油断すると身体から力を奪ってくる。常々負けないように踏ん張っていたって、ふとした瞬間に壁の高さに絶望した時は脱力させられてしまう。私には私の壁があって、あなたにはあなたの壁がある。自分の壁と他人の壁の難易度を比較することはできない。むしろそれはすべからく同等である。ネガティヴな壁もポジティヴな壁も、一度向かいあってしまえばその属性を失ってしまう。ただただ壁がある。日本代表がワールドカップで優勝することが偉大なことであるのと全く同様に、あなたが個人的な壁を実際に乗り越えるというのはとても偉大で勇敢なことだ。そうして日本代表が多くの日本国民の希望になるのと同様に、あなたがあなたの壁を乗り越えることはあなたの周りにいる人たちに大いなる勇気を与える。あなたがあなたの壁に取り組む行為。それこそがどのような人間にでも遺せる最大の仕事である。ざっくり素直に解釈すると以上のようなことを内村先生はおっしゃっている。

 

雑感

夏目漱石、新渡戸稲造、内村鑑三。三者とも幕末期に生まれ明治大正という世の中がえげつないスピードで変化する時代を生きた人たちである。ただ3人の仕事に対するスタンスは微妙に違っていて面白い。ぼく自身は特に何が言いたいというわけではないけど、明治の人たちって結構現代に生きる我々にもぶっ刺さるようなことを頻繁に言うんだよなあってのを紹介したかった。青空文庫ってこういうのが無料でザクザク読めるんだぜ。すごくない?

せっかくだから最後に各々のスタンスをわかりやすく恋愛で喩えてみよう。

夏目漱石「そら能力あるやつはモテるで。せやけどあえて女に照準合わせてモテようとせんでもええんとちゃう?自分自身の興味に応じて生きていく覚悟をもったら自然といい配偶者見つかることもあるんちゃうの?まあ、だいたい見つからんやろけどな」

新渡戸稲造「配偶者見つけるのはマジ大事。生きていく中で基本的なこと。スト高を追いかけてしまうのは男としてしゃーないことや。でもそれぞれの女にはそれぞれええとこがあるし、ブスを見下したらあかん。んで自分にほんまに合った女をなんとかして見つけるんやで。サポートすしたるわ」

内村鑑三「男は女にいろんなもの与えたらなあかんのや。飯食わせたったり、女の生活が回るように様々な面倒みたらなあかんのや。いろんな知識や教養も授けてエエ女にしたらなあかんで。でもやっぱり自分の生き様を見せるのが女には一番刺さるし、それはどんな男にでもできることなんやで」

どう、わかりやすいでしょ?笑

 

講演録は語り口調で書かれているので、ふだん本を読まない人にとっては読書の入口としては最適だと思う。その内容に興味を持ったら講演者の著作に移ってみるといい。ちなみにぼくのオススメは、夏目漱石はちょっと選べないのでパスさせてもらうとして、新渡戸稲造なら『自警』、内村鑑三は『余は如何にして基督信徒となりし乎』かな。前者はすごいオーソドックスな自己啓発書でたしか青空文庫にもあった。後者は信仰の道にいたるまでの自伝で個人的には最高&最高。ぼくは自伝が好きなのかもしれない。

昔の人の本を最初に読むときは注意深くじっくりと読むにかぎる。それで頭にあまり入ってこないようなら、まだその本と出会う時期ではなかったということで適当に捨てておくのがよい。反対にバッチコ‐ン脳天に来た著作に出会ったなら、このチャンスを逃す手はない。著者のことを心のままに追いかけてみると、束の間の幸せな体験を味わうことができるだろう。