平成最後の金曜日に流星氏のことを存分にディスってみる<6415字>

公家シンジ
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いつも流星氏を称賛するようなことばかり書いている(俗に言う 公家クレジットロンダリング)ので、最後にあえて趣向を変えて違った視点から彼のことを書いてみたい。

 

彼に出会ったのはぼくが彼の講習を2013年の年末に受けた時が最初なので、もう丸5年の付き合いである。それからは非定期で東京湾、京都、九州、北海道などを回って一緒にツアーや講習をしたりする仲で、このメルマガを始めてからは月に1~2度のペースで会って打ち合わせや音声収録をしてきた。

彼はそれ以外にもことあるごとにいろんなイベントに誘ってくれて、会うたびに世話を焼いてくれたりご飯を御馳走してくれたりするのだが、ぼくは付き合い始めてすぐの頃に「これは一緒にいるのは大変だな」と思ったのだった。

なぜか。

とにかく噛み合わないのである。
会話のテンポが合わない。
もっと言うと、身体のリズムが合わない。

時間の使い方が違う。
興味の対象が違う。
根本の価値観が違う。
言語のセンスも全然違う。
彼が笑っていることに全く笑えなかったり、その逆もたぶんあったり。

 

そういうわけでまずは困惑の感情が訪れる。

この感情は道場生ならわかっていただける方も多いのではないか。

たとえば一緒にご飯を食べている時も、どんな話題を振っていいのかわからない。彼が話していることにどうやってリアクションをとっていけばいいのかもわからない。一緒にナンパをしていても、会話の中に入っていくのが極めて難しい。

ちょっと自分の心を探ってみると、自分のことをうまく拾ってもらえないんじゃないか、うまく活かしてもらえないんじゃないかという不安があることに気づく。

信頼関係の欠如ゆえの、相手に対する不信感が原因である。こういったものは時の経過とともに徐々に消えていくものではあるが、不信感が生じる根本にはもちろん実際上の絶望的な噛み合わなさがある。

(ふと今思ったけど、こういう感覚って、もしかしたらナンパ初心者ならみんな感じることなのかもしれない。初めてOLを連れ出した時、キャバ嬢と飲みに行ったとき、風俗嬢と話したとき、芸能人とお茶をしたとき、自分とは異質の女たちと初めて接したとき、ぼくもこれと似たような気持ちになっていたような記憶がある)

 

しかし、、大変だ大変だと思いながらも、ぼくはもう5年も彼と付き合い続けているのである。

一体なぜか。

 

===

ぼくは彼の講習を受けたことがあるが、あまり師匠という感じはしない。

たとえば全国に数百人はいるといわれている彼の講習生(道場生)たちは流星氏に弟子入りしていて、彼らには流星氏をまるまる目指そうとする大きなモチベーションがある。なにせ流星氏はナンパの達人である。彼のようになるということは、彼のように女が抱けるようになるということを意味する。これは多大な現世利益である。そういうわけで流星氏が「黒」のことを「白」だと言えば、それはすなわち「白」であるし、流星氏が「おまえはKYだ」と言えば、「わたしはKYだ」という認識を受け入れることが彼に近づく最短の道である。ナンパの道を志すかぎりは受け入れざるをえない。それが師弟関係というものである。

しかしぼくには彼を目指すというモチベーションはない。影響は受けども感化はされない。彼が「黒」のことを「白」だと言っても、「なるほど」と思うだけである。

彼は師というよりかはむしろ先輩というような感じである。
年齢はもちろん、ナンパ歴や様々な人生経験の面でも、彼はぼくの先輩である。

噛み合わない先輩とはどうやってつきあっていけばいいのか。
ぼくは社会人としての経験がなかったので、多くの人が比較的早い段階にふつうにクリアしてきたこういった類の問題を30代にして初めて考えるようになった。

流星氏と付き合っていくのにはいろんな工夫がいる。

たとえばぼくは彼の前では考えながら喋るということを一切しない。それでは何を話しているかというとだいたいは雑談のような当り障りのないことを話している。ぼくは大事なことであるほど咀嚼しながら話す癖があって、これのために非常にたどたどしい印象を相手に与えることが多い。流星氏はこのゆったりとしたテンポに対する忍耐がない。

反対に彼は非常に早口である。言語の情報が多い。ぼくの興味のありそうなことなさそうなこと全部ひっくるめていつも情報が洪水のように流れこんでくる。Twitterのタイムラインに近い感覚である。ぼくの周波数帯域ではこれに全部対応するのは不可能なので、必然いつのまにか必要なこと以外はあらかた聞き流すようになる。

ぼくの彼に対する基本の態度は「スルー」なのである。彼は実は話を聴いてようが聴いていまいがあまり気にしない。「スルー」スキルを身につけることで少しずつ噛み合うようになってきた。そうしたら接するのがだいぶ楽になった。ぼんやり聞き流していたら、たまに体の奥にまで入ってくる声があって、それだけに対応しているだけでコミュニケーションがわりとうまくいくのである。

 

ただしずっとぼんやりしているわけにはいかない。というのも一緒にいるときはいつ何時ポカンと殴られるかわからないような緊張感がある。自分の中でプライベートな心理領域はしっかりと確保してセコムしていないと、スッと入ってこられてバコンとやられるのである。

たとえば一度など、「ナンパ音声は絶対に提供したくない」とあらかじめ強く釘を刺していたのにもかかわらず、女と3人で喋っている音声をいつのまにか録音されていて、そのまま恋愛道場のコンテンツにされてしまったことがあった。最悪である。

こういう経験をするたびに屈辱を味わうことになる。最初は彼に対する怒りが湧いてくるが、なまじ中途半端な抗議したら、ものすごい早口で抗弁をまくしたてられる。ぼくはそういう状況で半泣きになって俯いてしまっている人を何度も見ているし、仲裁に入ったことも何度かある。

ふだんわれわれは、「自己決定」とか「自由意志」とかそういうものの価値を無意識に尊重している。
そしてそれらを「常識」として空気的に他人と共有することで、安心して接することが可能になる。
それは近代を経てきたわれわれの、無意識に刷り込まれた習性である。

流星氏には近代の常識は通用しない。

 

こんな人間と接しているのはかなわんかなわん。
たとえるなら彼は自然災害のようなものである。
たとえるならそれはチャリンコに高速道路に入るようなもので、
退散するが吉である。

しかし、、そう思いながらも、ぼくはもう5年も彼と付き合い続けているのである。

一体なぜか。

 

===

流星氏は人から敬遠されやすい。
ぼくの友人でも彼のことを避けている人間はちらほらいる。

一度ぼくの友人の行きつけの蕎麦屋(カレー屋だったか)に3人で行ったことがあったが、そこで流星氏はクレームをえんえんとブツブツ店側に聞こえるように言い続けていたので、その友人は激怒してしまった。

友人の怒りはもっともで、これは控えめに見てもクソ以下の行為である。

だが、流星氏は自分がクレームがあるときは言う。それだけ。シンプルな行動である。

彼は他人の顔を立てるためにがまんするという嗜みや美徳を持たないのである。

そういう儀礼的なものは彼の世界には存在しない(少なくとも当時は)。

ちなみに先日彼の行きつけの店で「ナンパ」の話を大声でしていたら、「シンジくんはデリカシーがない」と言ってたしなめられた。なんでやねん。

ゆゆしきダブルスタンダードである。

 

流星氏と長く接していると、彼には悪意がこれっぽちもないのだということがわかってくる。

彼にはたしかに近代の常識がない。
彼にはただ彼固有の強烈な情緒がある。
その情緒を発露にして、いつもその場その場でステートメントをすごい勢いで瞬発的に組み立てているのである。

そうしてそういうステートメントによる丸め込みが他人に対して通用してしまうことが多いので、彼の中では「成立している」という認識になっている。合理的な判断だ。これは明解な経験則から得た説得のテクニックなのである。そういうわけで常識が入り込む余地はない。

 

長く付き合っていると、彼に対する怒りは、常識という不確かなものを盲目で信じていた自分自身への怒りに変わる。彼の瞬発力に対応できない自分の無力さに対する怒りに変わる。

しかし自分自身に怒りを感じてまで、どうして付き合う必要があるのか。

そう思いながら、ぼくはもう5年も彼と付き合い続けているのである。

一体なぜなのか。

 

いつも自分の好奇心に負けてきたのである。
彼のことをもっとよく見てみたいという好奇心である。

大波の日にサーフィンに出るような。
吹雪の日に登山に行くような。

もちろんぼくはそのような個人的な好奇心だけで付き合ってきたのではない。そこには職業的な好奇心もあった。ぼくらは当初ふたりとも「ナンパ講師」で、そしてぼくは彼の「ナンパ講師」としての圧倒的な力量をずっと不思議に思ってきたのである。

いかにも内気で根暗そうな男性がぼくの講習を数回受ける。それでぼくは声かけをしたりなごみの練習をしたりする。それで特に目立ったことは起こらないまま講習は終わる。数か月後に繁華街で別人のようになって声をかけている彼にばったり遭遇する。非常に楽しそうにナンパしているのである。聞けば流星道場に入門したと言う。

これに類するような経験を何度かするうちに、ぼくはこれは偶然ではないと確信するにいたった。流星道場の中で、必ず何かよくわからないエクストラオーディナリーなことが起こっていると。

それからぼくは手の焼いた何人かの講習生には、気分転換に流星道場を受けてみるよう推薦するようになった。ちなみにナンパが上達するための下地を持たない人は流星講習よりも公家講習を選びやすい。公家講習を選ぶ人というのは、まだ心の準備ができておらず、精神的に甘えたいひとというのが多かったのだが、ぼくが流星氏を推薦するものだから彼らは恨めしそうな顔をするのである。

「なんであんな胡散臭いひとのところに、、」とでも言いたげである。

それをぼくは「まあまあ」だなんだんて言ってなだめすかして送りこむ。

結局は行かない者もいた。
「公家さんが言うんだから騙されたと思って」と獅子の谷に飛び込む者もいた。

だが準備をして飛び込んだ人間は、しかる後に必ず街でイキイキとしだすのである。
流星道場、あそこの中ではいったい何が起こっているのか。
ぼくはそれが知りたい一心で、一緒に講習もやったしツアーにも行ったのだといっても過言ではない。

 

===

 

ここまで心のままに書いてきたが、今回はディス成分多めのせいか思いのほか軽快に筆が進んだ。

しかし勘違いしてもらいたくないが、彼のことを否定したいという気持ちは毛頭ないのである。

 

ぼくはどのような人間にもいいところと悪いところがあると思っている。

光の部分と闇の部分とがバランスをとりながら共存している。

このバランスを大きく崩してしまって、世の中が許容できないラインを越えてしまうと警察のお世話になるし、身体が均衡を失ってしまうと病院のお世話になることになる。ナンパクラスタにはことのほかラインを踏み外す者が多いが、それはわれわれが欲望の最前線にいるからであって、自身を見失うと容易に自分に食われてしまうのである。

そうした中で、流星氏はそのギリギリのラインを軽々と全力ダッシュしているような人間である。ギリギリのラインを走っているからこそ多くの成果を得る。そしてギリギリのラインを走るためには必ず精緻な自己管理が必要になる。

ここから先はぼくが解明してきた彼の光の部分について渋々書いていこう。全く筆が進まないが、今年最後の公家クレジットロンダリングである。(「お前も同様に極めて胡散臭い人間なんだからロンダリングなんてできないだろ」という反論は受けつけません)

 

まずなにより、彼は他人に対する面倒見が非常に良い。

ナンパ初心者は「これ読んでおいて」とナンパ商材を渡されただけでは、現状は何一つ変わることはない。それを読み込んでも同様に何も変わらない。小一時間の座学をひととおり受けても何も変わらない。3時間の路上講習を受けても変わらない。ひとつのきっかけとしてその経験が機能することはあるかもしれないが、そこから自発的に成長していくためには、たくさんのたくさんの壁が待ち構えていて、それらをひとつひとつクリアしていかないといけないのである。

つまり人が育っていくプロセスというのは、カボチャが育つのと同じように、もっと長期的なプロセスなのだということ。晴れの日も雨の日も面倒を見る。丹精に水をやり、雑草を取り除き、その場その場で必要な正しい処理をしていく。時に𠮟り飛ばしはっぱをかけ、時に飴を与えて満足感を与える。清濁併せのむような長期的な働きかけを受けることによって人というのは少しずつ育っていける。

そして流星氏は非常に熟練した専業カボチャ農家なのである。

 

流星道場生の中には、たまに「ぼくは流星さんに嫌われているんじゃないか」というような相談を持ち掛けてくる人たちがいる。

至極尤もな懸念だけど、流星氏のことが全くなにもみえていないと言わざるをえない。

そんなことは気にするだけ時間の無駄である。

彼はめったなことでは他人なんて嫌わない。
それどころか、ぼくは彼が心から他人対して感情的に腹を立てている姿すら見たことがない。

なぜなら彼は他人のことをカボチャ程度にしか見ていないからである。

カボチャを嫌う人がいるだろうか?
カボチャに腹を立てる人がいるだろうか?

「初対面の他人をカボチャ扱いすること」こそナンパの作法なのである。

 

「自分がカボチャなのだとしたらハロウィンの日にいいように玩具にされるのではないか」という懸念もあるだろう。たしかに人間はカボチャからしたら恐ろしい存在にちがいない。だが実は人間とカボチャというのは対話可能な存在なのである。

彼の台風のような暴挙に対してしっかりと抗議を表明するほどの精神的強さを持たない人間は、彼に愛想を尽かして、あるいは単純に毛嫌いして去っていく。

しかし心を強くもって正面から接すると、そこで彼は初めてその人のことを対話可能な存在として認知するのである。最初は自分の主張を台風のように強く通そうとする。台風に対するクレームがあって初めて対話が始まる。旧約聖書に出てくる神のようなもので、実は意外と素直に聞いてくれたり、柔軟に自説を曲げてくれたりするのである。

最初のぶつかりで負けずにふんばれたら、同じ土俵に立てるのだということ。

これは彼と接する人にはぜひとも知っておいてもらいたいことである。

とはいえ講習生や弟子だと立場上難しいかもしれないけど。

 

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ぼくが流星氏と長く付き合い続けているのは、そうして「ありか、、なしか、、ありか、、なしか、、」と悩みながらもギリギリのところで「うーん、あり」という判断を下すのは、やはり彼に対してそれだけ大きなポテンシャルを感じているからである。

世の中は毒にも薬にもならない人間でほとんどが占められている。

そういう人間たちが「オレは薬です」の顔をしてのさばっている。

それはいいことでも悪いことでもなくて現実の様相であるのだが、われわれは実際は家族や恋人など近しい間柄の人間を除いてはふつう毒にも薬にもなりえない。そのような力を持っていないのである。

その中で、流星氏というのはどちらの要素も兼ね備えた劇薬なのだということ。

これをひろく皆さんに伝えることをぼくの最後の仕事としたい。

 

 

 

最後に彼の特徴がうまく現れたツイートがあったので、引用してみる。

 

ぼくも含めて多くの人間は、「今の自分ではない何者か」になりたがっている。
だからもがくし、苦しい想いをする。

反対に彼にはそういうところが一切ない。

常に無名の在野のひとりであるし、これからもそうであるはずだ。
彼は人生の瞬間瞬間を心から楽しんで生きているのである。

こういったアティテュードこそが彼のもっとも特異にして偉大なところなのではないかとぼくは秘かに思っている。