【23号書評】<5560字>「婚活」時代(山田昌弘 白河桃子)

公家シンジ
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ちょっとした興味から『婚活』についての本を読んだ。『婚活』という言葉の生みの親、社会学者の山田昌弘せんせとライターの白河桃子さんが共著で書かれた御本である。

山田せんせは婚活という言葉を『就活』のパロディとして作ったらしい。作られたのは2000年代に入ってからなので、比較的まだ新しい言葉である。本書は新書なので『婚活』の全体像をぼんやりと把握するのに向いているが、なんせ2008年、つまり今から10年も前に出版された本である。婚活についてひととおりの背景をすでに知っている人には物足りない内容かもしれない。ぼく自身はそういう背景に疎かったので、それを知りたくて手に取ってみた次第である。

さて、婚活とはなにか。

これについて理解するには、社会を<市場>として見るということが必須になる。社会を<市場>として見るとは、人間を取引の主体であると同時に客体(つまり商品)であるというふうに見るということである。つまりそれは人間を値付けするということ、人身売買の発想をもつということである。

男と女が結婚するということは、男と女が「男という主体が女という商品を手に入れ、女という主体が男という商品を手に入れる」という物々交換の取引をするということである。そしてそういう取引の全体を婚活市場という。

御託はともかく、婚活のなんたるかをもう少しわかりやすく紹介したい。

 

内容紹介:婚活の社会的背景

婚活市場のメカニズムを理解するためには、実は労働市場を理解しないといけない。なぜなら労働市場は婚活市場に大きな影響を与えているからである。労働市場においては、人間は企業に自身の労働力を売り込みにいき、その対価としてお金を得る。すなわち、働いて給料をもらうということである。結婚をすると夫婦の家計は一緒になる。ということは婚活市場というのは、労働市場で人々に分配されたお金を再分配するプロセスを担っているということもできる。これはかなり抽象化した説明だが、押さえておきたい大事なことは、婚活市場での取引は労働市場の市況に大きく左右されるということである。

というわけで、まずは労働市場と婚活市場の歴史を概観してみることにする。

前近代社会、だいたい日本では江戸時代までは、そもそも職業選択の自由はなく、生まれた家の職業を継ぐしかありませんでした。結婚も、原則、親が取り決めていました。女性は、自分の父親と同じか似た職業のところに嫁いで、そこで、自分の母親と同じように夫といっしょに働いたのです。「活動」しようにも、もともと選択肢がなかった。だから、何も考えることなく、仕事と結婚という二大イベントをクリアしていきました。

江戸時代以前は、人々の大半は土地と血縁にガチガチに縛られた農民で、彼らには職業にも結婚にも選択の自由はなかった。つまり労働市場も婚活市場も自由ではなく、当事者以外の誰かや何か(親とか習慣とか)が取引の内容を決めていたと。

 

それが、近代社会になると、職業選択の自由や結婚相手の選択の自由というのが出てきます。成長するなかで、自分で職業を決め、結婚相手を選ぶ必要が出てきたのです。しかし、日本社会では、つい最近まで、さまざまな「規制」があったおかげで、選択に際して、意識的に活動するという努力をしなくてすみました。

近代社会というのは明治時代からのこと。士農工商の身分制度が崩壊して、農民は名目上は土地から解放され自由になった。新しい産業が次々と起こり、農村から都市へと少しずつ人口が流入し始めた。われわれは初めて自分の身の振り方の選択を迫られるようになったかにみえたが、多くの場合、実質上はまだまだ自由とはいえず、既存の習慣や人間関係によって、職業や配偶者はほぼ自動的に決められていた。

 

戦後から1990年ごろのバブル経済期までは、学校に入れば就職は自動的についてきました。高校なら就職指導の先生が振り分けてくれました。大学を出れば、研究室の先生の紹介や先輩などのリクルーティングがありました。また、就職協定があって、一定の時期に人並みのことをすれば、自然と就職先が決まっていきました。何より、新卒の求人が求職を大幅に上回っていたおかげで、自分の出た学校に見合った就職先にたどり着くことができました。女性は職種が限定されていたので、多くは一般職などに就職しました。

戦争の後、われわれは経済成長をし続けた。オラオラオラオラオラオラという感じである。経済が成長し続ける見込みがあるかぎり、若者の労働力には大きな需要がある。次から次へと労働力を投下してモノやサービスを生産する必要があるからである。そういうわけで男はみんな自動的に職業あっせんを受けどこかの会社に入れたし、ジジイになるまで正社員として働くことが保障されていたし、収入も右肩上がりが保障されていた。つまり労働市場は依然として自由ではなかったということである。

 

結婚も同様です。三章で詳しく述べますが、「出会いが少ない」「つき合ったら結婚するのが当然」「婚前交渉はいけない」など、こちらにも、さまざまな「規制」があったおかげで、見合いとか職場結婚とかで、適齢期になると次々と決まっていました。

男にはじゅうぶんな収入の見込みがあったので、女を躊躇なく養うことができた。「結婚はしないといけないものである」という因襲的な社会通念も後押しして、多くの男は日常で出会う限られた女たちの中のひとりと20代後半までには結婚していた。つまりここでも婚活市場は自由ではなかった。

 

変化が現れたのは、バブル崩壊後の1990年代に入ってからです。

自由化、つまり「規制緩和」があらゆる分野で進んだのがこの時期です。就職協定は1980年代には解除されていましたし、男女雇用均等法によって女性も就職戦線に加わってきました。求人が減って就職氷河期となり、研究室推薦や高校の振り分けで決まる人も少なくなってきました。

ここからが面白い。バブル崩壊後に経済成長が停滞した。未来の先行きが暗くなった。ぼくが子どもの頃の話である。企業は「仕事ないからそんなに人いらんねん」と宣言した。また女も少しずつ労働市場に参入するようになり供給はますます過多に。結果的には労働力の価値が減少した。若者涙目である。そうして企業の側が労働力という商品を選り好みするようになり、有能な人間には給料が多く支払われ、無能な人間は疎まれるようになった。男たちの間に収入の格差が広がっていった。自由ってこういうこと。

 

男女交際に関する規制緩和が起きたがゆえに、自動的に結婚できない時代が出現しています。つまり、個人が、意識的に結婚活動を行わないと、よい結婚相手どころか、結婚自体をすることがむずかしい時代に突入しているのです。

じゅうぶんな収入を得れない男は婚活市場でも需要がなくなってしまう。食っていけない男についていく女などいないからである。その結果、女たちは一部の有能な男たちに群がるようになった。また「結婚しないといけない」とか「婚前交渉はいけない」とかそういう因襲的な通念も少しずつ和らいでいき、われわれはより選択の自由に晒されることになった。男性間におけるモテの格差も広がり、男女ともに結婚からあぶれる者たちが増えてきた。

以上ざっくりとこういう背景がある。
今では就活も婚活も若者の行動として常識になりつつある。

 

自分を市場に晒すつらみ

就活も婚活も「就職しなくてはいけない」「結婚しなくてはいけない」という思い込みが活動の源泉になっているのだろう。だが自由の保障された時代にこそ、そういう思い込みが人々の中に生じるというのはなんとも皮肉で面白い。どうやらわれわれは「何でも自由にしていいよ」と言われると不安になってしまうようである。市場が自由化して混乱し不安に陥った人間たちが、自らの手で新しく秩序を作り出そうとする営み、これが就活であり婚活であると言える。

 

人身売買の発想で社会を眺めると鬱屈した気持ちにさせられるという人も多いのではないだろうか。なぜなら自分自身を商品として値付けするというのはツラいことだから。実は巷の3流インフルエンサーたちが「現実を見ろ」と言うとき、それが意味することは単に「市場の視点を持て」ということだったりする。つまり、自分自身も商品であるということを認識しろという意味なのだが、人が無意識に避けていることを強制しようとするのが3流の3流たる所以である。だがどれだけ自身を値付けすることを拒絶している人であっても、他人のことは狡猾に値付けしていたりするものだ。われわれは中途半端に市場の視点を持っているのである。

自分を商品として市場に売りに出すというのはツラい。学校という社会では、クラスメイトに「おれも仲間に入れてよ」と打診したり、好きな女に「つきあってください」と告白したりしただろう?それが商品としての自分の序章であり、このあたりからトラウマを抱える人も現れてくる。学級委員に立候補したり、部活のキャプテンに選ばれなかったり、バイトの面接に行ったり、諸々のプチ市場体験をしたその後でわれわれは本格的な抜き差しならない市場に放り出されることになる。それが就活と婚活である。そしてそういうことをしているうちに賢明な人間たちは気づいていく。「わたしが自分自身を商品だと認識するしないに関わらず他人はわたしのことを商品として見ているのだ」ということに。

商品として人間を捉えたら、「平等」なんていう概念は木っ端みじんに吹き飛ばされることになる。われわれは、まったくもって、平等ではない。ある市場で、多くの人たちから絶対的に必要とされる人間がいる一方で、誰からも全く必要とされない人間がいる。そういう認識をしっかりと獲得してはじめて恋愛工学のような思想が理解できるようになる。人間を徹底的に商品として捉える思想である。彼らが身を削って自分たちを市場に晒すのは「徹底的に市場のロジックで社会を捉えた少数の人間」が「脳みそお花畑で欲望に流される多数の人間」を最終的にまくるのだという強い信念があるからだろう。

だがそれでも市場の中で商品として生きるというのは大変なことである。都市の中で自分自身を値付けすることに疲れ果てた人たちは必ず夢を見るようになる。<わたし>という存在はかけがえのない存在であるという夢を。それはつまり「どうかわたしを買ってください」という商品の叫びの裏返しに他ならない。束の間の休息のつもりで夢を見たのが、どっぷりはまってしまって抜け出せなくなることもある。市場のダイナミズムが熾烈になればなるほど、都市ではそうやって多くの夢が存在する余地が生まれてくる。ナンパ師は女のそういう夢を容赦なく利用してセックスを獲得する。サービス産業やエンタメ産業は彼らの夢を増幅させ、ひとつの巨大な市場を作り上げる。そこで取引されているものは一体何なのか。ぼくには全くわからない。

 

婚活市場の今後の見通し

わからない。

現在、若い世代の人たちは自由市場の中で傷だらけになりながら新しい秩序を模索している最中なのだというのはわかる。これから仕事や恋愛についての新しい価値観が打ち立てられては否定され、打ち立てられては破壊されを繰り返し、そうやって徐々に浸透していくことだろう。ただ今後どういった価値観が主流になっていくのかはわからないし、ぼくはそこにはあまり興味がない。

もう少し掘り下げてみると、結婚に対する切迫的な要求というのは女のほうが圧倒的に強いので、変わっていくのは女のほうからなのではないかと思う。追い詰められた者こそが現状を切り開いていくというのはこの世の常である。今は女が男にいろんなことを求めすぎて行き詰っている。現代の男には女の要求に応えれるだけの力を持った者は往々にしていない。くわえて、男はそこまで追い詰められていないので、女の要求に死ぬ気で応えるようなモチベーションも低い。というわけで双方の歩み寄りというのは期待できない。女が個別に革命を起こすしかない。ある女は男のスペックに妥協して共働きの道を模索するかもしれないし、自分のキャリアを高めて自立して子育てする道を選ぶかもかもしれない。実家が比較的裕福ならばシングルマザーとして実家で子育てをしていく道もあるかもしれないし、日本の男に見切りをつけて海外の荒野を切り開いていく女も現れるかもしれない。いずれの道をもとらない女は、ひとりで孤独に死んでいくことを選ぶだろう。いずれにせよ、これは女の問題である。

 

男たちにはどういう未来が待っているだろうか?

われわれは女と比べると結婚を切迫して必要としているわけではない。長くナンパ師やナンパ講師をやってきた実感だが、われわれは実はセックスすらも切には求めていない。つまり、われわれには切実さが根本的に欠落している。男はオナニーをすることで手っ取り早く性欲を解消できるし、都市には様々な種類の性風俗サービスが待ち構えている。VRでセックスの疑似体験までできる時代である。たしかにわれわれには金がない。家族を養っていけるだけの力がない。個体としてサバイブしていくのがギリギリのラインである。ワープア、ニート、パラサイト、ネカフェ難民、非モテ、草食系、AFC、インセル、、。市場で必要とされていない者たちは、こうやって新しい名前をつけられることで束の間の安心を得ている。社会からの承認を得たとでも思っているのだろう。だが、そういったものはすべて一時しのぎに過ぎない。真綿で首を絞められるような苦しみの中で、われわれ男たちの変化は女たちよりもゆっくりと進行していくのではないかと思われる。ぼくがジジイになったとき、まわりが生きてるのか死んでるのかもわかならいような目をした孤独なジジイだらけになっていたらどうしよう。

以上、稚拙な考察を書いた。歯切れが悪いが、このへんで終わりにしたい。