【21号書評】<6630字>高学歴男性におくる 弱腰矯正読本(須原一秀)

公家シンジ
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今回はアブナイ本を紹介する。

須原一秀という哲学者が書いた『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』である。

理屈っぽいだけで全く行動に移さない中途半端なモヤシ男子に対して処方箋を提示するような内容になっている。これはぼくがそういう意図でもって歪曲して読んだわけではなく、著者自身が明確にそういう意図を持って書いている。

なにがアブナイかというと、ふつう人間が強固に持っている「生存本能」「防衛本能」といった性向を低下させようと試みているところである。たとえば、怖いという感情や痛いという感覚を麻痺させる。そうすることで「男らしさ」のレベルを上げることを目論んでいる。極論すると彼は読者に対して「死ね」と言ってるわけである。ちなみに須原さん自身はこの本を書いた後、さらに思想を発展させて自殺を肯定するにいたった。そしてその思想を自らの身体で体現してこの世を去ってしまった。

2006年のことである。

だからアブナイと言っている。

 

本書の理論的骨子

まずは本書の内容をいくつかのキーワードを交えながらなるべく平易に紹介しよう。

この本のひとつめのキーワードは『変性意識』である。変性意識とはふだん生活の中で有しているいる意識とは違う諸々の意識のことで、人というのはふとしたきっかけで意識が変性してしまうものだ。冒頭で著者はその変性意識の状態の具体例を列挙している。実際に彼の生徒たちにインタビューして得たものである。

次のキーワードは『価値意味』『自己保全意識』である。価値意味については以下の例がわかりやすい。

【事例四六】家の近くの神社に、樹齢何百年の大きな木がある。昔、その木の近くの別の木に登って、気の葉っぱ越しにそのそびえ立つ木を下から眺め上げたとき、なんか体がしびれたような気がして、それ以来変に好きになったのだ。今でもそれを見上げると、気持ち良くなり、疲れがとれるような気がする。それは何かこう、グングンとすごいのである。そして、何か意味があるのだ。しかし、その意味は説明できない。友達に言っても分かってもらえなかった。(強調著者)

【事例四七】バスは堀川通りを走っていました。通りの真ん中にイチョウや様々な木が並んでいました。最初はボォーと窓の外を眺めていましたが、木の下の方の根から盛り上がって太くなった部分に目を移してみていると、何とも言えないような、心を洗われたような気分になり、目が離せなくなりました。何故か、その幹の特別太い部分が特別に意味があるように感じたのです。(強調著者)

『価値意味』は頭で理解しようとしてもうまくいかない。なぜならそれは体感だからだ。上のような体感を友達に伝えようとしても「なにスピリチュアルなこと言ってんの」と言われてオシマイである。だけどこの体感を「意味」という言葉で表現するのはわりと普通の言語感覚だろう。そのほかにもぼくたちは「価値」「迫力」「魅力」「凄み」「怪しさ」「心」「力」「命」といった表現を使ったりする。最近だと「やばみ」という言葉もある。事例四六と事例四七の「意味」のところをこれらの言葉で置き換えても、文章内容はそれなりに伝わるはずだ。著者はこういった体感を指すものを総称して『価値意味』と呼んでいるのである。

変性意識状態に入ると、ひとは『価値意味』に敏感になる。
その反面『自己保全意識』(自分の生命や財産を守ろうとする意識)が下がる。

これら2つは反比例の関係になっていると彼は言う。

 

そしてここまで理論的準備を入念にしたうえで、次に「ウヨク」「サヨク」について説明されている。ちなみに著者はガチの分析哲学者なので、文章の運びはいたって厳密であるのだが、ここでぼくは誤解を恐れずに要旨だけを抜き取りたい。

ウヨク→「意味価値」に敏感で「自己保全意識」が低い 
サヨク→「意味価値」に鈍感で「自己保全意識」が高い 

こういうざっくりとした対の関係を提示している。下の表にこれまで説明したことを簡単にまとめておく。

  価値意味 自己保全意識
ウヨク 敏感 低い
中途半端な人 ふつう ふつう
サヨク 鈍感 高い

ウヨクは、変性意識との親和性が高く、価値意味に敏感で、自己保全の意識が低い。
反対にサヨクは通常の意識の時よりもさらに冷めている。理論的枠組みの中で人間をとらえようとし(いわく「人間の遺伝子は利己的であり」「市場では自己利益が最大になるように」などなど)、自分の生命や財産を最重視している。
そして中途半端な人というのは、中途半端に価値意味を語るがゆえにサヨクから食い物にされている。たとえばそれはブラック経営者から「生きがい」という価値意味を与えて、経済的にえんえんと搾取され続ける続ける労働者のような。

以上が本書の理論的骨子である。

 

本書の主張

彼の主張はいたってシンプルで、「男はウヨクになれ」ということに尽きる。もう少し丁寧に言うと、「男はウヨク性とサヨク性の両方上げて状況に応じて多重態勢をとることで乗り切れ」というかなり難しい注文をつけてくるわけだが、これについては後ほど少し述べる。

特筆すべきは、ウヨク性を上げるためには、戦闘的小集団での共同体体験(仲間生活)が下地になると書いてあるところ。厳しい順応訓練、悔しさ、喜び、などの共有を経由して、所属意識とアイデンティティが確立されるとのこと。自衛隊みたいなものを思い浮かべるといいだろう。

このような小規模の緊密な戦闘的仲間集団では、プライバシーも、見栄も、ハッタリも通用しません。見栄やハッタリは、見え見えの「見栄」や「ハッタリ」としてのみ通用します。また、嘘つきは「嘘つき」として認められます。それは、修羅場を何度もくぐり抜ける過程で、自分と仲間で共同で確認されることです。(P.125)

それに比べると、現代の若者のアイデンティティなどは希薄なものです―本当の意味で良い人間か、悪い人間か?―修羅場では、ずるく行動するのか、しないのか?―守るものを守れるのか、裏切るのか?―どれぐらいの強さで人を憎んだり、愛したりできるのか?―などまったく分かりようもないままに、「自分とは本当は何か」とか、「自分はどうあるべきか」などと考えて、作り上げる自分イメージなど、まさに泡か幽霊みたいなものです。だからこそ、現代の若者はそのひ弱なアイデンティティを保護するために、用心深くなり、もう中学生段階からヒネてシラケた大人の様相を帯び、変性意識への、つまり価値意味への感受性が早くから低下するのです。(P.126)

 


またウヨクのもつ特性のひとつに強現実主義(変性意識がらみの強烈な修羅場体験)というのがあって、これは物事の対処の仕方を表している。

それは、厳しい共同生活の過程で培われた行動規範みたいなもので、常に状況相対的な、しかも臨機応変な生活様式の集合です。それは全体として一貫したものでも、つじつまのあったものでもありません。

つまり、言葉にして、倫理規則のような形には出来ないのです。したがって、データベース化しにくいものです。(中略)

それに対して、現代人は本やテレビなどから、データベース型の知識を集積します。そして、目前の現実をそれらデータベース型の知識を参照しながら認識します。人が人を殺す残虐さも、エグサも、殺される恐怖も、あるいは目の前の牛肉が牛を殺した結果の産物であることもデータベース型の知識としては知っております。(P.128)

 

ウヨクとサヨクをわかりやすく対比したものを参照してみる。

 ウヨク(原型的右翼) サヨク(典型的都会市民)
 非合理主義 合理主義
 自己放棄 自己保全
 全体 個
 直情 距離設定
 プログラム型 データベース型
 意味親和 意味嫌悪
 強現実主義 弱現実主義
 一見強面(芯は優しい) 一見優しい(芯は冷たい)
 男にも女にも惚れっぽい 自己愛、あるいは自己嫌悪

(P.140)

これまでのぼくの説明で上の表はなんとなくわかるだろう。本書ではこのすべてについて丁寧に書かれているので、気になったところがあったならぜひ一読してみてほしい。

 

具体的な処方箋

以上が本書の主張なのだが、変性意識に縁遠い人なら一笑に付して「で?」で終わってしまうに違いない。そして「結局どうすればいいの?」という疑問が湧いてくる。これは絶対こうなる。ぼくもこれまで何度も何度も何度も何度もいろんな人たちから聞かれてきた質問である。現代の男たちが弱腰を矯正するためには具体的にどういう行動に出ればいいのか。著者がもしナンパ講師だったなら「いいから街で死ぬ気で声かけろよ」と言うのだろうけど、本書ではわりと親身になって答えている。とはいえ、もちろん「死ね」とは言えないため、歯切れは悪い。

著者が提案する現実的な処方箋は、横着さを養成すること嘘つきになること。言葉遣いに気をつけること。この3つ。詳しい内容については本書の第十講を読んでもらうとして、皆さんが興味を持てるように、いくつかの部分を引用しておきます。

博打を打ち、うそを言え、一丁歩むうち七度はほらを吹かねば、男でないぞ…盗み、密通う、まぎれもない者ども…それくらいの者でなければ、物の用に立つ者にはなれない…

とにかく、インテリに特有の、あの「優しげな物腰」だけは絶対にやめるべきです。あれは、恥ずかしいことに、「冷たいニセの優しさ」です。(もちろん、人前で「物分かりの良い優しげな人物」を演じるのは―演じる限り―かまいません。)

「男なら志しの一つも持て」とか、「自分は意味のある人生・夢のある人生・目的のある人生でなければ嫌だ」なんて、シケた二枚目みたいなことは言わない方が良いのです。

「自分は何かにこだわって生きたい」なんて、肩のこるような事は、なお更に言わない方が良いのです。(P.184)

 

 

読後の雑感

自分が弱腰であるということで悩んでいる男というのは確かに多いように思う。これはぼくがナンパ講師をやっていた都合上、出会う人たちの属性が偏っているから感じることかもしれないけど。そして著者の言う通り、昨今では弱腰の処方箋として提示されているのは「サヨク的」なものばかりなのである。「健康法(長生きするためにはこうすればいいですよ)」「エビデンス(統計学的には大方間違いないです)」「分散投資(財産変動のリスクをなるべく減らすにはこうすればいいですよ)」そして「恋愛工学(こうすれば女は抱けるぜ)」など、周りを見渡せばこういったノウハウばかりである。これらはすべて何かしらの理論や枠組みに基づいて自分の生命や財産を保全したり増やしたりする類のものである。人間を理論で捉える。世界を原則で捉える。将来の不確実さすらも統計処理で済ませてしまう。そして自らの利害に敏感に生きる。ブログでもツイッターでも今はやりのVoicyでも、人気のある恋愛コンテンツは「女の落とし方」であり、「これまでに経験した最高のセックス談」ではない。現代の流行りは圧倒的にサヨクなのである。

ちなみに70年前くらいはハタチそこそこの若者が現代においては理解もできない「意味価値」のために集団でバンバカ戦場に死にに行ったらしい。それより前の幕末の時代だって現代に比べるとウヨク性が高い男たち(武士)はかなりいたようである。最近戯れに吉田松陰の著作を読んでいたのだけど、彼なんて清々しいほど常に変性意識に入っている。「自分は生も死もどうでもいい。自分の至誠が天に通じるかどうか、ただそれだけを試したかった」といった趣旨のことを書いている。バッキバキのウヨクである。(ちなみに彼は精が漏れるとかなんとか言って生涯女を抱こうとしなかった。だけどもし抱いていたら行為の最中に女を殺しかねないくらいのドSに変貌したんじゃないかとぼくは推測している) 彼はその時代でも特別ウヨク性が高かったんだろうけど、それでもそこらの武士たちだって革命だの攘夷だの言ってバンバン斬りあいをしていたし、名誉だなんだの言ってガンガン切腹してたわけだし。だから著者の言うように、どのような男にだって、そうやって自分や他人の命の価値を薄める能力のポテンシャルは間違いなく備わっているんだろうと思う。だけどそれと同時に、そのポテンシャルが開花するかどうかっていうのは周りの動向っていうものも大きく影響するのだろう。いわゆる同調圧力。流行。カッコイイ言い方をすると時代性というやつだ。ぼくらは命が何よりも大事な時代を生きている。自由よりも、感動よりも、名誉よりも、一晩限りの最高のセックスよりも、命が大事な時代。その次に金が大事な時代。命の価値が高騰している現代において、ひとりだけ命の価値を下げるような生き方をするのはやっぱり抵抗がある。そんな時代では「サヨク」が流行るのも必然だろうなと思った。

そんな現代において、流星氏は稀なウヨクである。上記の内容を読んで流星氏のことを思い浮かべた方がいたなら勘が良いと思う。彼のナンパ活動における意味価値は「即」である。第何号だったか忘れたけど『長期恋愛』の号で『愛』について語っていた音声収録を思い出した人はいるだろうか?あれは頻繁に変性意識に入ってる人じゃないと語れないことだ。通常の意識の人間なら、彼の言説には整合性がないと指摘するかもしれないけど、彼は彼の場当たり的な実感を語っているだけなのである。

ちなみに彼はウヨクであるのと同じくらいサヨクでもある。自分の安全や利益を脅かすものに対しては極度に敏感に反応して現実的に対処する。著者の言うところのウヨクとサヨクの多重姿勢が自然に備わっている。ウヨク性しかないならば指導者としてアブナイ。サヨク性しかないならばメルマガでじゅうぶんである。両方兼ね備えているからこそ流星氏は偉大な生きた指導者なのである。ぼくは彼のあのバランス感覚にいつも惚れ惚れとしている。

最後にぼくからも弱腰に対する具体的な処方箋を提示しておきたい。中途半端な男が手っ取り早くウヨク性をもてるのはナンパツアーである。ぼくのツアーもよかったけど、流星ツアーも最高にウヨク的だ。クローズドで緊密なグループが地方都市に遠征する。そのグループの中では即という価値観が至上のものになっていて、体力のかぎりを尽くしてこれを追い求める。自由だとか、名誉だとかそういった高尚なものを追い求めず、即という一見超絶クダラナイものを真剣に追い求めているのが最高にいい。ツアー中はみんな変性意識に入っている。ツアーで化ける男というのはこれまで本当にたくさんいた。

ソロでのストナンも修行としては過酷でいいけど、あれは変性意識に入りやすい人と入りにくい人がいるから万人にはオススメできない。女から冷たい言葉を浴びせられると急に現実を突きつけられたように感じてシュンとなって変性意識が解けてしまう人もいるだろう。反対に、彼女たちの冷たい言葉でより深いトランスに入れる人ならば、ストリートはかなり最高のワンダーランドになるだろう。いったんそうやって街の中に飛び込んでしまうと、視界の色合いが全部鮮やかになっていって、路上の形がグニャリと歪みだす体験ができるはずだ。その中で交流する女というのはやっぱり格別のものだ。

女からモテるためには自信、しかも根拠や実績のない自信が必要というのはよく言われていることだけど、ふつうの意識状態で「俺はヤリチンだ」などと自分に言い聞かせたところで、非モテは自分がヤリチンだとは全く思えないだろう。なぜならセルフイメージが固まってしまってるから。それはただのやせ我慢である。だから非モテが「俺はヤリチンだ」というセルフイメージを自らに植え付けるためには変性意識の状態でないといけない。そういうわけで、ぼくはいつしかストリートナンパよりも筋トレのほうをオススメするようになった。特にナンパ初心者のうちは実際に女が関与してこない世界でイメトレをしたほうがいい。筋トレをするとマッチョになって女からの食いつきがあがるからという理由ではなくて(それはもちろん好ましい結果ではあるけど)、筋トレをして自分を限界まで追い込んでいるときって完全に変性意識の状態に入ってるの。だからたとえば、腕立て伏せの最後の追い込みのときに「女を容赦なく抱いている」イメージを浮かべたり、「男と血気盛んに争っている」イメージを浮かべたりすると、そのイメージはかなり定着しやすい。根拠のない自信というやつである。

全部蛇足だったかもしれない。やってみる価値があると思ったらやってみて。とにかく地方都市のツアーは最高だよ。飯もうまいし、水もうまい。