【21号書評】<5120字>決めて断つ ぶれないために大切なこと(黒田博樹)

公家シンジ
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今回は元プロ野球選手の黒田博樹の著書『決めて断つ ぶれないために大切なこと』を取り上げる。前号の本田圭佑に続き、アスリート特集の第2弾である。


(彼の半生における普通でない決断の数々がとてもコンパクトにまとめられたバラエティ番組。知らない方はぜひ視聴してみてほしい。)

 

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プロ野球好きの方には改めて説明する必要のないことかもしれないが、黒田博樹は伝説的な投手である。彼はメジャーで活躍をしていた2015年、ヤンキースからの20億の年俸オファーを辞退して年俸5億の古巣広島カープに戻ってくるという決断をした。金銭的な視点だけで見ると15億円を捨てさったということになる。ちょっとわけがわからない決断である。この有名なエピソードが本書タイトルの由来にもなっているのだろうが、実は彼はそれ以外でもキャリアのいたるところで金銭的な功利を度外視する決断をしてきている。彼が「金」よりも大事にしているのは「義理」のようなものらしいのだが、今回その彼の独特の価値観は少し脇に置いておいて、別の視点から本書を読み進めていきたい。

そもそもぼくが彼に興味を持ったのは、彼は一度も野球を楽しんだことがないと書いていたからだ。

 

楽しむ教 VS 苦しむ教

僕は中学生以来、野球を楽しいと思ったことは本当に一度もないし、特にメジャーに来てからはシーズン終盤になると性も根も尽き果て、体力的にも、精神的にも余力が残っておらず、「もう、こんなしんどいことはしたくない。引退しよう」と真面目に考えるようになっていた。(P.10)

シーズンが終わるということは、そうした苦役にも似たものから解放されることであり、「これで当分、ボールを握らなくていい」という気持ちが生まれる。(P.10)

こんなふうに考えてしまうのは、僕はとにかく、野球を仕事にすることが決して楽しいことではない、という感覚が強いからだろう。よく「楽しんでやりたいです」と言う選手のコメントを聞くが、彼らは本当にそう思っているのか、と僕は半信半疑のままだ。正直に言えば、何が楽しいのかさっぱり分からない。誰か、僕に野球の楽しさを教えて欲しいくらい…。(P.248)

野球にかぎらず、何かしらの物事を「楽しんでやれ」と吹聴する人は多い。「好きこそ物の上手なれ」という諺もある。楽しんで物事にあたるなら自然に結果もついてくるし、いつのまにか成長もしてるものだと。一般的にはそう信じられている。誰が言い出したのか知らないが「努力は夢中には勝てない」なんていうセリフもよく聞く。努力=苦しい、夢中=楽しいという図式だ。頑張って努力している人間は楽しんでやっている人間には勝てないのだということを言いたいらしい。

ぼくは「楽しんで物事に取り組む」ということを否定しない。むしろそういう「快」の感覚を夢中になって貪りながら取り組んでいるうちにいつのまにか成長していけるのなら本当に素晴らしいことだと思う。しかし楽しいことだけをやって生きていける人は稀である。「楽しんでやれ」と吹聴する人は「苦しいことにぶつかった時はさっさと放棄して自分の好きなことを早く見つけろ」と言うだろうか?本当に?もしそれが趣味ならば苦しければやめても問題ないと思う。だけどそれが仕事の場合は?仕事が苦痛だからと言ってすぐにやめていたら食っていけないじゃん。もう少し微妙な例を出すと、受験や就活や恋愛の場合はどうだろう。これらは苦痛だからといって放棄したところで、差しあたっては生きていくには困らない。だけど長期的に見ると、経済的にも社会的にも不満足なポジションに甘んじることになってしまいかねない。そういう微妙なこともたくさんある。

そもそも仕事に関していうならば、成長と苦痛というのは不可分なのだ。苦痛を避けていては仕事上で成長することはありえない。というのも、仕事の成長というのは<他人の想いや要求に応えるキャパシティを広げる>ということに他ならないから。そして他人の要求に応えるというのは、本来自分の好き嫌いとは独立したものである。客の要求やファンの想いというのは、あなたの生理のリズムとは無関係に存在する。そういうわけでそれに応えるというのは多かれ少なかれ苦痛を伴う行為にならざるをえない。仕事の業務内容が苦痛であるなら職を変えれば解決するかもしれない。しかしあらゆる仕事は他人の要求に応えるという点で共通しており、他人の要求に応えるという行為にまつわる苦痛は、たとえ職を変えたところで払拭できるものではないということである。(というような趣旨のことは以前も夏目漱石『道楽と職業』のところで書いた。)

 

他人の想いに応えることの倫理的価値と実利的価値

皆さんは「走れメロス」という小説を知っているだろう。学生のときに国語の教科書で必ず読まされたはずだ。我々はそうやって<他人の要求に応えること>の重要性を若い時分にひととおり習っているはずなのだが、結果としては内容すらいつの間にか忘れてしまっていることも多い。なぜならそれは「倫理的に美しい価値観」として称揚されるだけだったからだ。約束を守ることや他人からの要求に応えることが重要なのは、それが倫理的に美しいからというよりも、それをしなければ社会の中であなたが成長する機会は奪われていくからなのである。簡単に言うと、他人から相手にされなくなるのだ。そういう実利的な側面をしっかりと見据えていない者は、必要な苦痛を避けていく中で誰からも信頼されなくなり、いつの間にか孤立していくことになる。そういう意味で黒田選手というのは、「走れメロス」の倫理的価値と実利的価値の双方を肌感覚でわかっていた男であったと言えるだろう。彼はその実利的価値を「恐怖」という感情によって探知した。

打たれるのが怖い。怖いから、練習して上達するしかない。それはプロに入ってから、それこそメジャーに移籍してからもずっとつきまとってきた感覚である。きっと、打たれるのが怖くなくなったら、僕は野球選手として終わりだ。

「自分はこんなもんじゃない」と思ってプレーする選手はよくいる。しかし、僕は恐怖心から努力してきた。そうやってようやく次のレベルが見えて…、ということを繰り返し、階段を上ってきただけなのだ。(P.76)

怖さを払拭するために苦行に勤しむ。それが黒田選手の基本的な心理である。本書を読めば、この鋭敏な危機意識は幼少時に母親から強烈に叩き込まれた影響が大きいことがわかるだろう。そしてプロとしてのキャリアを積んでいく中で研ぎ澄まされてきたものであるということも。

 

苦痛を最小限に抑えるためのノウハウ

とはいえ苦痛というのは誰にとっても不快なものである。仕事の成長のためにはそれを避けて通ることは叶わないにしても、なんとか最小限に抑えたいと思うのは自然の気持ちである。ぼくが思うに、一流のアスリートになればなるほど、「必要な苦痛を最小限に抑えるため」「無駄に苦しまないため」の合理的なノウハウをしっかりと持っているように思う。それは黒田選手も例外でない。本書ではそのためのノウハウがいくつか書かれているので紹介したい。

 

1、目標は目の前のものだけにこだわる

正直に言って、僕はまったく粘り強くない。自分には手が届かないものだと分かると、すぐに放り出してしまうのが自分の性格なのだ。カープの例で言えば、入団早々、「佐々岡さんみたいになる」と目標を立てていたら、それこそ1年目で挫折していたと思う。

壮大な目標を立てていると、そのために苦行をする心が折れてしまう。これとも関係することがだが、「期限を設定する」というのも大事なノウハウであるように思う。期限を決めたら苦行にも耐えることができる。彼にとってメジャーリーグ挑戦は苦行に他ならなかったようで、3年という期間を決めて戦地へ赴くつもりで挑戦したそうだ。

 

2、頭を使ってこだわりを捨てる

目標を達成することが最優先事項である。全ては目標達成のためにあらねばならない。今までやってきたことが目標の達成に寄与しないことがわかったのなら、それを捨てる決断をするべきである。目標達成につながらないような苦行は有害でしかないのだから。人には苦痛に耽溺する性質が多かれ少なかれある。苦痛を受けていないと心が不安になる。それは一種の神経症的気質であるが、この気質を助長させてしまうと合理的な決断ができなくなってしまう。黒田選手はメジャーリーグに挑戦する中で、万全の準備をするこだわり、完投へのこだわり、直球での真っ向勝負のこだわりなど、日本にいたときは自然に持っていた様々なものを冷静に捨て去ってきたらしい。これも目前の目標だけをしっかりと見据えていたからこそできたことだろう。

 

3、長い時間をかけて自信を培う

ぼくなりにこれを解釈するならば、彼は<技術を身につけたという自信>と<他人からの信頼を勝ち得たという自信>とを分けて考えているのだろう。そして彼は前者の自信を持たないようにしているのだ。なぜなら技術習得の自信は比較的短期間で身につけることができる一方で、短期間で失われてしまいやすいからだ。新しい変化球を身につけて打者を抑えれるようになったと喜んだ次の日に、猛打を浴びることだってある。そういうものに一喜一憂していると安定したパフォーマンスを上げることができなくなってくる。なので後者の自信を時間をかけて身につけるべきなのだろう。

 

殉教者の振る舞い

実は黒田選手は、周りが惚れ惚れするような大きな決断をする直前までえんえんとグジグジ悩んでいたり、なんなら決断をした後でも「あれでよかったんだろうか」と振り返ったりしていることが多い。性格なんだろうけど、基本煮え切らない。周りからは「男気の黒田」などと言われているが、実はとても女々しいのである。それから「おれももっと楽に野球がやれたらなぁ」なんて言いながら「やっぱり結局楽しめない」というような愚痴も出てきたりする笑 

ひとつの道を選ぶには徹底的に考え抜くことが必要だ。それが正解とは限らないわけだが、それでも自分で決めた以上、

「あれだけ考えたのだから、これが正解だ」

と思わなければやっていられなくなる。

いや、むしろ自分の選んだ道が「正解」となるように自分で努力することが大切なのではないかと思う。(P.186)

この本で何度も出てきた「苦しみ」や「恐怖心」「責任」という言葉たち―。

それらすべては、勝利を掴んだときや、組織に貢献できたときの達成感、そういった「一瞬の喜び」の為のエネルギーだと僕は思っている。だから苦しいことも我慢できるし、乗り越えられる。

「苦しまずして栄光なし」

苦しみの先に必ず、栄光があると信じているからこそ、前に進めるのだ。(P.225)

本書は彼が長い期間をかけてそういう葛藤してきた中で、徐々にあぶられ浮いてきた信仰の告白である。それは苦しみを肯定するという信仰。彼の言葉は「楽しめばいいじゃん」というチャラい教の教義の欠陥を暴いてくれる。他人の想いに応えようとするのは、根本的にツラいことだ。これは仕事の話だけではない。恋愛を含む人間関係というもの全てに言えることである。もっと言うならば、それは自分自身との関係においても言えることだ。自分をひとりの他人として捉える。自分自身の要求に応えるようにしてひとつひとつ物事を成し遂げていく。そういう行為の繰り返しが懐のキャパシティを広くしていく。そうしてそれが自分に対する信頼、すなわち自信へとつながっていく。そうやって自分自身にいつも重荷を課して成長を求めてしまうのは人間のひとつの性なのだと思う。黒田選手はその性を全力で背負いながらここまでやってきたわけだ。まさに殉教者である。彼のこれらの赤裸々で力強い告白を聞けただけでも、ぼくにとっては万巻の価値があった。

実は黒田選手は本書を書いた翌年の2015年に、先発投手として古巣広島カープを25年ぶりのリーグ優勝に導いたことでさらなる伝説となった。そして有終の美を飾って多くのファンに惜しまれながら引退した。彼はキャリアの最後まで周りからの要求に最高の形で応え続けたと言える。その実績が本書の説得力を極限まで高めているのは思わぬ収穫であったに違いないが、しかしカープが優勝しようがしまいが、結局のところ、この本は「仕事が苦痛で仕方のないサラリーマンが、それでもなんとか上司や顧客の要求に応えながら仕事の裁量を広げていく仕事術」と同相のものであるとも言える。

 

最後に黒田選手の引退セレモニーの様子をお伝えしたい。ファンへの態度、同僚たちとの接し方、マウンドへの黙祷、全部ひっくるめて、どうみても殉教者の振る舞いそのものなんだよな。