【17号書評】<5320字> 女ごころ(サマセット・モーム)

公家シンジ
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今回はサマセット・モームの短編小説『女ごころ』を取り上げる。ひとりの美女の心の推移をばっちり描いている作品だ。日々ナンパに勤しんでいる人なら彼女の心理は手に取るようにわかってとても楽しめるだろう。文章も平易だし、事前に考慮するべき複雑な時代背景もない。1時間もあればじゅうぶんに完読できるくらいの長さなので、ふだん読書に慣れていない人でもなんなく読みこなせる。

女ごころ (ちくま文庫)
W・サマセット モーム
筑摩書房
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登場人物を紹介する。

主人公はメアリー。超絶スト高30歳。20代前半で熱烈な恋愛の果てにとある男と結婚したのだが、彼がアル中のメンヘラだったことで10年近く振り回された生活を送り消耗する。のちに夫は交通事故で無残な死を遂げ、彼女は未亡人になった。物語はそういう状態でスタートする。

 

そして彼女にアプローチする3人の男たち。

ひとり目はエドガー。彼はメアリーの父親の友人で54歳。長身で細身、40代にしか見えない風貌で文句なしのハンサム。独身のまま行政官として勲章ものの社会的地位にまで昇りつめようとしている。PUA用語でいうところのバリバリのアルファメイルである。メアリーとは彼女が幼い頃からの付き合いだが昔から密かに想いを寄せていたようで、物語の最初のシーン、丘の上のメアリーの別荘でエドガーは彼女にプロポーズする。

ふたり目はロウリー。ボンボンニートの30歳。酒好き、女好き、博打好き。ストレートな物言いが多く、周りからの評判は良くない。身長も低くずんぐりとした体格でルックスも並以下。しかし何かしらかの理由でか女をよく惹きつける。メアリーとは社交場での顔見知り。

最後はカール23歳。美術学生。大きな瞳にやつれた憂い顔。オーストリアからナチスの迫害を逃れるためにやってきた難民。下宿代を叔母に借りながら、盛り場でバイオリンを弾いてなんとか日々の生計を立ててているが、ふとしたきっかけでメアリーに話しかけられて、、

彼女はエドガーからプロポーズをされた数日のうちに、この3人のうちの1人と一緒になる決断をする。このスピード感。果たしてそれは誰でしょう?

 

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こういった予測が意味を為すためには、もちろん著者の男女描写がそれなりに現実味を帯びている必要がある。ロマンティックな筋書きは人の心を自然に高ぶらせ潤わせるのには一役買うが、それが過ぎると実際にわれわれをとりまく男女関係の諸相との接点を失ってしまう。「こうあればいいのに」という浮足立った願望と「ありえないだろ」という地に足のついた目線がせめぎあう。「ありえないだろ」に振り切ってしまうと、その本からは知恵や教訓を引き出せなくなってしまうし、場合によってはゴミにしか思えなくなってくる。納得感が命なのだ。本書はその点ぼくにとっては「おおいにありえるだろうな」と感じられたものだった。つまり筋書きにはある種の説得力がしっかりとあった。細部の人物描写にもなかなかの現実味を感じた。そして、日々ナンパに勤しんで多くの女性と近い距離で接しておられる皆さまもきっとぼくと同じ納得感を感じるだろうなという確信がある。なのでここは安心して自分なりの目論見をもって結末を予想してみてほしい。彼女は誰を選ぶのか?必然的に登場人物はあなたの知っているあの男や女に置き換わって読まれることになるだろう。

本書の中ではひとつの非日常的な事件が起こる。そしてその事件を境にメアリーをめぐる人間関係は一変するのだ。ぼくたちの実際の生活の中では事件なんてめったに起こらないので、いったんそれが起こると途端に物語は現実味を失ってしまうかのように映るかもしれない。だけどそういった事件は誰にでも起こり得るものだ。事件が起こると人間は振る舞いが一変する。日常の人格は剥がれ落ち、ふだんのやり方ではコミュニケーションが成立しなくなる。そういったルーティンの皮を一枚ペロリと剥いた後の登場人物たちのやりとりを想像力を頼りにしながら楽しんでみてほしい。ちなみにぼくは当初の読みを外しましたけど笑

 

ネタバレは今月中に行う予定。

 

 

ここからネタバレ!

 

メアリーが選んだのは遊び人のロウリーだった。そして恋愛道場でぼくが目指す人物像として掲げているのも『ロウリー』だ。

ロウリーはちょっと資産に余裕があるだけのふつうの人間である。ライバルを圧倒するような外見のメリットは何ひとつない。一般的には美徳とされているような謙虚さや紳士さはなく、「○○さん、さすがです!」というような社交上の美辞麗句なども言わない。ではなぜ彼は女からモテるのか。その答えは彼のマインド、公家用語で言うところのアティテュードにある。彼がこれまで培って形成してきたアティテュードが彼を一筋縄ではいかないような魅力的な人物に見せているのである。たとえば、彼はまずなにより自分がほしいものを自分でよくわかっている。自分自身には常に自由で身軽であることを求め、女にはセックスだけを求める。物の見方が現実的で感傷的なところがない。人間の心理にも精通していて人の扱い方や切り捨て方も知っている。困難に直面した時に、それを前向きに楽しむことができる。瞬発力を持ってしっかりと機敏に動ける人間である。よく言えばたくましい。悪く言えば狡猾である。これこそが普通の境遇の人間が辿り着けるひとつの極致であるとは言えないだろうか。

エドガーは積み上げる人である。王として生まれて大衆をひっぱっていくことを義務づけられたリーダー。積み上げる人というのは積み上げ続けることを宿命づけられている。その結果、リーダーとしての並々ならぬ威厳やオーラを自然に身につけ、多くの人を惹きつけている。ただ、積み上げるというのは自由を代償にするということでもある。自尊心や周りからの期待など、見えないものでいつのまにか自分ががんじがらめに縛られていく。そういう人は緊急事態になると案外脆い。守るものが多すぎて機動力を失ってしまうからである。彼とメアリーとの別れの会話は名シーンだった。読者諸君はエドガーの葛藤に共感してみるのはいい訓練になるだろう。エドガーは自尊心ゆえにNOが言えないのである。NOと言う自分自身を受け入れられない。一度吐いた唾を呑み込むのはエリートとしてあるまじき行為であるという認識があるのだろうか。だが彼もひとりの人間だ。ナンパされる女がYESと言うための言い訳を常々ほしがっているとしたら、エドガーはNOと言うための言い訳をほしがっている。いろんなものをかなぐり捨てて自分の気持ちに素直に動くには、エドガーは背負っているものが大きすぎるのである。言い訳がほしいのは女だけではない。

カールは弱さを武器にする人である。自分の弱さをさらけ出すことで、相手から哀れみや保護欲求をかきたてる。思い通りにならないことがあると、自分の命を人質にしてまで駄々をこねる。メンヘラと一言で片づけてしまうのは簡単だが、これはれっきとした弱者の生存戦略なのだ。メアリーのような非の打ちどころのない女がカールのような弱い男に嵌っていった例をぼくはこれまで何度となく見てきている。さらに彼は運命というものに対して自分を委ねきっている。神に祈りを捧げる者のようだ。しかし誰も彼の軟弱さを嘲笑したり非難したりはできまい。彼の人生は初期条件がスーパーハードだったのだ。自分の力ではどうやったって人生を切り開いていけないということを小さい頃から植えつけられると、人というのは超越的な力にすがるようになる。それはある種の必然であり、その刹那的な生き方には美しさすら感じさせられる。だがもちろん運命というのは良い結果だけをもたらすわけではない。どれだけ祈りを捧げても救われる保証があるわけではない。神と同じように人間も気まぐれで、それは30そこそこのメアリーだって例外ではない。そういうわけでカールは人生最後の夜にメアリーの気まぐれに歓喜し、そして同じくメアリーの気まぐれに絶望して死んでいった。ぼくたちは、多かれ少なかれ運命に翻弄されるカールである。自分の人生を完全にコントロールするなんて、無理な話だ。

 

 

正直に告白すると、ぼくは最初はロウリーだけは選ばれないだろうなあと思っていたのだった。メアリーみたいな女からすると、彼は一番深く関わりたくない人間にちがいないはずなのだ。彼女はエドガーの階層を目指そうとしているわけで、ロウリーのような人間にかかわって自分の人生のコントロールを失うわけにはいかない。なのでロウリーには相当警戒するはずだと。反対に彼女にとってカールは警戒の対象ではないため、カールにどんどん嵌っていくだろうと踏んでいた。か弱く繊細なカールのことを「カワイイ」と感じて母性が搔き立てられるはずで、身体の関係を持った後、そこから抜け出せなくなっている自分にようやく気付きグダグダの関係になっていくだろうなと。メアリーは過去にも同じようにダメ男の旦那に引っかかっているわけで、人間のどうしようもない「変われなさ」、ダメ男に引っかかってしまう美女の悲惨さをこの作品は書くつもりなのかもしれないと思っていたのだった。

しかし実際はカールが自殺を図ることで物語は急展開を迎えるのだった。そして事件が起きてみるとロウリーの存在感が圧倒的に際立ってきて、これはもう勝負あったなという感じになった。緊急事態には、柔軟でたくましく人間こそが女から重宝される。むしろ男からも重宝される。メアリーが事件に動転してパニック状態になってしまったとき、カールは容赦なく彼女に強烈な平手打ちを食らわせるシーンがある。これには平常時の倫理で言うと一発アウト退場である。しかし平常時の正解が緊急時にも正解であるとは限らない。もちろんぼくは女に平手打ちを食らわせることを推奨はしない。暴力は下策中の下策である。しかし想像してみてほしい。ナンパした女とホテルに行ってそこで女が急にわけもわからず騒ぎ立ててコントロールできなくなってしまった時に、あたふたしてどうしようもなく狼狽えてしまうような男のことを誰が信頼するというだろう?力を行使する必要はないが、それをしっかりと示せる、行使できる必要はあるのだ。

 

PUA用語で言うと、エドガーはアルファメイルであり、ロウリーはPUA、そしてカールはAFCである。

われわれの多くはエドガーを目指すようにと幼少の頃から刷り込まれていく。社会に出て立派な大人になりなさいと言われ、たくさんの競争を余儀なくされる。競争の強制は人を疲弊させトラウマを植えつける。そもそもこういう競争は予定調和の向きが強い。だいたいエドガーのような生まれながらの王者が勝つと決まっているのである。だからこそぼくはすべての人にエドガーを目指させるのは非効率でとんでもなく愚かなことだと思っている。「社会人である」ということを強制するような教育はもはや時代遅れである。ぼくたちは「責任をもて」と教えられる前に「もっと無責任でいいよ」と教えられてもいいのではないだろうか。そうじゃないとほんとの責任感なんて芽生えてこないと思うんだけどね。ロウリーとメアリーは最後に結ばれた。しかしこれが俗に言う「末永く幸せに暮らしました」系のハッピーエンドかというと、どうしてもそうだとは思えない。メアリーも一筋縄ではいかない女性だし、ここから2人の戦いが始まっていくだろう。ロウリーは結婚してからも、自分の気持ちを一番大事にし続けるはずだし、これからも固定観念には縛られないだろう。この物語の中ではロウリーの弱さはひとつも描かれなかった。彼は常に自由を志向した無責任なPUAであった。果たしてメアリーとの付き合いの中でロウリーは今後主体的に自分を家族に捧げるようになっていくのだろうか。

またカールほどではないかもしれないが、われわれの多くはAFCでもある。どうしようもなく不利なステータスでもって人生をスタートさせられるとメンヘラ弱者戦略をとらざるを得なくなっていく。カールのように人生の局面を祈るように場当たり的に生きていっても、今の日本くらい平均的に恵まれた環境では、耐えられないくらい悲惨な状況にはめったに陥らない。多くの人はそう高をくくっているのかもしれない。カールかロウリーのどちらを目指すべきかという問題は、エドガーかロウリーのどちらを目指すべきかという問題よりもはるかに答えが出しづらいことだと思う。カールには神に対する信仰心はあったが生へと向かうアティテュードが弱かった。そういう人間は遅かれ早かれ死ぬしかない。彼だってそれを望んでいるのだから。これはぼくの浅はかな邪推だが、カールがもしもっと聖書を熱心に読み込んでいたら彼のアティテュードはどうなっていただろうかと想像してしまう。旧約聖書というのはカールのような人間をロウリーのような現実的な人間に強く育てるのに寄与していたはずだと思うからだ。