【18号書評】<7050字> 学問のすすめ(福澤諭吉)

公家シンジ
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ようよう、みんな大好き1万円札おじいちゃんの登場である。タイトルのとおり諭吉せんせいはもちろん「学問」をすすめているわけだが、いったい誰にすすめているのかというのがポイントでありそれについては後述する。さらにここでの学問というのは受験勉強のような勉強のための勉強ではなく、実学のことである。つまり、読み書きそろばん、帳簿の付け方、天秤の使い方など自分の生計を立てるのに役立つ基礎からはじまり(あえて現代風に言うなら、国語、四則演算、簿記、データリテラシーみたいな感じ)地理学、物理学、歴史学、経済学など世に広く役立つようなものも含む。書いてなかったけどエンジニアリング全般ももちろん含まれるだろう。特筆すべきは修身学を学べと説いているところである。修身学というのは、身の行いを修めて他人と交際して世を渡るための自然の道筋を説く学問であって、今でいうところの自己啓発に相当する。そういうわけで本書を選んだ次第です。

 

原文は青空文庫で読めます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html

 

堅い文語調が頭に入ってこない人は、
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536

この神ブログを参照にしてみて。現代語訳と要約、文脈や背景の解説がある。

 

全部で17編しかないし、1編ずつも超短くて読みやすい。以下に編ごとのまとめを大阪弁1行で書いてみたから興味あるとこだけでも読んでみてほしい。

 

初編:学問にはげむんやで!
2編:みんな平等なんやで。身分制度なにそれダサい
3編:不羈独立は人としての基礎中の基礎やで
4編:世の学者の役割はこんなやで
5編:世の学者の役割はこんなやで
6編:法律作って守るの大事やで
7編:おまえらはこんな役割あるやで
8編:他人をコントロールしようとしたらいかんで
9編:飯食えても家養えても半人前やで
10編:実学大事やで
11編:身分制度あかんて何回言わせるねん!
12編:スピーチ大事やで。言ってることとやってること一致してないとあかんで。
13編:ルサンチマン絶対あかんのやで。
14編:こまめにフィードバックするやで。人の世話するときは注意するやで。
15編:物事はちゃんと疑って判断するんやで
16編:いろいろ大事なこと繰り返すやで
17編:仕事術、コミュ力はこうやるやで

 

諭吉せんせいが学問を身につけることを初っ端に勧めるのにはしっかりとしたロジックがある。2編以降ではそのロジックが丁寧に書かれている感じ。ただそれらを理解するには、少しばかり当時の時代背景や思想に立ち入らないといけない。


まず諭吉せんせいが無気力のアホのことを「愚民」呼ばわりして超絶辛辣にバッサリと切り捨てていることに注目したい。アホには何を話しても無駄で「威をもって制圧するしかない」とまで言いのけている。愚民が多いから為政者は専制的に支配せざるをえないのであって、江戸時代のそういう構造を避けるにはお前ら民はマジで気力をもって学ばなあかん。開眼せよ!これを読んでるおまえらは無気力のアホじゃないよな?おれはそう信じてるで!という類のことを繰り返し言ってる。ひとつの立派な誘導だ。

 

不羈独立のマインド(諭吉せんせいマジでマッチョ)

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という有名な冒頭句が示すとおり、彼が一番最初に説いてるのは「平等」だけど、その次に説いてるのは「不羈独立」である。これキーワード。難しい言葉だが「経済的にも精神的にも自立している」という感じ。ちなみに「不羈独立」はスタートラインに過ぎないとせんせいはおっしゃる。これも大事なポイント。自分の身を立てて女を獲得して家庭をもって家業の経済を回しても当時は半人前としかみなされなかった。そこから国のためになにか役立つ仕事をすることをしてようやく一人前とされていたのである。だからこそ、当時は「金がない」だとか「女からモテない」だなんていう個人の悩みにはそんなにフォーカスを当てられなかったのではないかと予測する。より大きな目標があったから、自立なんてさっさと達成しないとという風潮があったのだ。

この「さっさと達成しないと」というマインドは自己啓発において大事なポイントなのではないかと思う。というのも金も女もキリがない。快楽と幻想の泥沼である。さらにコミュ力の改善もキリがない。こっちは不信と幻想の泥沼である。「独立というラインをとりあえず達成したらもう次のことしましょ」という空気があることでこの泥沼にハマらずにすむのならありがたい。

現代のわれわれにとっては問題はもっと厄介である。なんせ独立した後のコースが用意されてない。もはや国全体を上げて産業を興していくみたいなムードは皆無で、やるべき大義名分がない。そういうわけで金銭欲に囚われるかぎりは死ぬまで金儲けしてまともに使わずに死んでいくし、性欲に囚われるかぎりは年老いて相手にされなくなってもへばりつくように追いかけ続ける。バランス感覚に長けた人間は、ある程度の自立した生活を維持したまま時々女をつまみ食ったり小銭を稼いだりというようなささやかな楽しみに慰めを見出して過ごしている。そして金にも女にも掻き進んでいく気力のなかった人間は、まともな仕事も与えられず異性からも相手にされず取り残されて圧倒的孤独と困窮を味わうはめになる。そういうわけでこの現代、個人はたしかに自由になったかもしれないが、結果的には、皆進んで専制的な支配構造に再び取り込まれていっているように見える。世の中全体が自由すぎて困っている。全然質の違う人間が皆人生の同じステージをやっている。金持ちも貧乏人もおえらいさんもニートも既婚者もひきこもりもみんなナンパ講習に通って女の尻を追いかけるのが現代である。これは世の中の構造的な問題だから、ぼくとしてはこれ以上言えることがない。

 

諭吉流交際術

諭吉せんせいは支配関係を全否定してらっしゃる。親子関係など致し方ないものを除き、他人をコントロールしたりコントロールされたりというようなコミュニケーションを未熟であると全否定。われわれは一個の独立した存在であるべきで、そのような個体同士のコミュニケーションでは約束事を立ててそれを尊重し遂行していくべしとのこと。もろ近代の個人主義的な発想である。諭吉流交際術の要諦は、

その1、なごみを学べ
その2、スト値を上げて初対面で人から厭われることのないようにしろ。

以上!みたいな感じ。現代のナンパ講師と言ってることが全く変わらなくて笑う。このあたり面白かったので原文をまるまる書く。ちなみに最後の17編です。16、17編は交際術に関することだから、まるまる読んでも面白いと思います。

言語を学ばざるべからず。(中略)ゆえに言葉は、なるたけ流暢にして活発ならざるべからず。

(中略)また今日不弁なる人の言を聞くに、その言葉の数はなはだ少なくしていかにも不自由なるがごとし。(中略)何はさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり

 

顔色容貌を快くして、一見、直ちに人に厭わるることなきを要す。肩をそびやかして諂い笑い、巧言令色、太鼓持ちの媚を献ずるがごとくするはもとより厭うべしといえども、苦虫を嚙み潰して熊の胆をすすりたるがごとく、黙して褒められて笑いて損をしたるがごとく、終歳胸痛を患うるがごとく、生涯父母の喪にいるがごとくなるもまたはななだ厭うべし。顔色容貌の活発愉快なるは人の徳義の一か条にして、人間交際においてもっとも大切なるものなり。

非常にシンプルである。弁舌は「自分が思ってることを相手に伝わるように表現すること」、顔色容貌は「表情や姿勢・身だしなみ」くらいに捉えるのがいいのかもしれない。現代でこんなこと言うと「そんなこと言われても、、」と困ってしまう人は多そうだが、当時もそういう反論する人はあったみたいで、せんせい続けてこう書いている。

人あるいは言わん「言語・容貌は人々の天性に存するものなれば勉めてこれを如何ともすべからず、これを論ずるも詰まるところは無益に属するのみ」と。この言あるいは是なるがごとくなれども、人知発育の理を考えなば、その当たらざるを知るべし。およそ人心の働き、これを進めて進まざるものあることなし。その趣は人身の手足を役してその筋を強くするに異ならず。されば言語・容貌も人の心の心身の働きなれば、これを放却して上達するの理あるべからず。

フランクな現代語で訳するならば、

「スト値とかコミュ力って先天的な要素だから、そんなことごちゃごちゃ言っても無益だよね」などといかにもそれっぽいこと言うやつ多いけど、人知発育の理を考えたら、この発言は全然的外れなことがわかるでしょ。人間の心っていうのはどんどん自分で成長させていけるものなの。言うたら筋トレしたら筋肉がどんどん筋肉が発達すみたいなもの。コミュ力もルックスも人の心の作用なんやから、その根本のマインド疎かにしたら上達はせえへんで。みたいな感じ。

他人との交際に必要不可欠なこのマインドこそが「独立不羈」のマインドだということだろう。独立の気概がなければ、表情も締まりのないものになるし、コミュニケーションも依存的なものになると。この人知発育の理については自分もなんとなく体感していることではあったけど、もうちょっと突っ込んで書いてほしかった。

 

通して読んでみて思ったが、諭吉せんせいは女にあんまり興味なかったんだなという感じがする。男女間に特有のコミュニケーションというものには一切触れられてない。専制的な夫婦関係をぶった切っておしまい。男女の関係というのは、独立した個人同士の交流というよりかは、依存的でアンバランスな関係であることが極めて多い。彼自身は言行一致で生涯を通じて嫁一筋だったみたいで、たぶんマジで浮気とかもしなかったのではないかというような気がする。チャラい慶応生はせんせいの爪の垢を煎じて飲むように。

最初のポイントに戻る。諭吉せんせいは誰に対して語りかけているのか。答え。ミドルクラス。つまり世の中の中間層。親子関係のトラブルを仲裁する喩えで言うなら、子供に対して、しかも分別のある賢そうな子供に対してだけ働きかけている。子どもたちに「独立」を働きかけている。逆に親には一切働きかけをしていない。(世の中には親に対して働きかけるような啓蒙書もある。)しかしながら「独立」は一朝一夕で達成されるものではない。時間をかけた精神の熟成と自分なりのバランス感覚を要するものであり、「独立」を説くものは長期的な展望を持たねばならない。個々の現場ではもっと柔軟な発想でかいくぐっていくことが必要になるだろう。本書は典型的な啓発書でありノウハウ本ではない。啓発書というのは人の心に訴えかけるような理想や明確な指針を提示する。ある者はその理想や指針に活路を見出し人生を切り開いていき、ある者はその指針に挫折を味わったり、慰めを見出したりする。そして実際の人間の様相というのは時代を超えてもあまり変化しない。それゆえにわれわれは何度も同じ理想を眼差し続ける。世代を超えて広く読み継がれていく名著というのはそのようにして存在する

 

名文抜粋

本書は全部で17編あって一編一編はそれぞれ短くスラスラ読めてしまう。また後半に進んで行くほど個別のトピックに入っていて興味深い。なのでぼくが「おお!」と思った部分を文語で列挙するだけして締めたいと思う。文語のほうが味がある。興味が出たら一読してみて。

およそ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず。智恵なきの極みは恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍の富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴・一揆などとて乱暴に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。(中略)

かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもっておどすのみ。西洋の諺に「愚民の上に苛き政府あり」とはこのことなり。(初編)

自分的に一番げらげら笑いながら読んだパート。

しかるに無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに欲は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の方を遁れ、国法の何ものたるを知らず、己が職分の何ものたるを知らず、子をばよく産めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁盛すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず。かかる馬鹿者を取り扱うにはとても道理をもってすべからず、不本意ながら力をもっておどし、一時の大害を鎮むるよりほかに方便あることなし。(2編)

また言ってるw どんだけ愚民ディスるねん。

 

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる人は必ず人にへつらうものなり。(中略)

独立の気力なき者は、人に依頼して悪事をなすことあり(3編)

せんせいは精神的マッチョの権化。依存してるやつダッサー。ってずっと言ってる。

 

そもそもわが国の人民に気力なきその原因を尋ぬるに、数千百年の古より全国の権柄を政府の一手に握り、武備・文学より工業・商売に至るまで、人間些末の事務といえども政府の関わらざるものなく、人民はただ政府のそうするところに向かいて奔走するのみ。(5編)

親が永い間過保護すぎて軟弱な息子が育ったのが原因だと言ってる笑

 

下戸の身に上戸の魂を入れ、子供の身に老人の魂を止め、盗賊の魂は孔夫子の身を借用し、漁師の魂は釈迦の身に旅宿し、下戸が酒を組んで愉快を尽くせば、上戸は砂糖湯を飲んで満足を唱え、老人が樹に攀じて戯るれば、子供は杖を突いて人の世話を焼き、孔夫子が門人を率いて賊をなせば、釈迦如来は鉄砲を携えて殺生に行くならん。奇なり、妙なり、また不可思議なり。(8編)

リズムがいいから書いてしまった。自分の心でもって他人の行動を操るのはおかしいよねと痛烈に言い放つゆきち。

 

怨望の人間交際に害あることかくのごとし。今その原因を尋ぬるに、ただ窮の一事にあり。ただしその窮とは困窮、貧窮などの窮にあらず、人の言路を塞ぎ、人の業作を防ぐる等のごとく、人類天然の働きを窮せしむることなり。貧窮、困窮をもって怨望の源とせば、天下の貧民は悉皆不平を訴え、富貴はあたかも怨みの府にして、人間の交際は一日も保つべからざるはずなれども、事実においてけっしてしからず、いかに貧賤なる者にても、その貧にしていやしき所以の原因を知り、その原因の己が身より生じたることを了解すれば、けっしてみだりに他人を怨望するものにあらず。(13編)

人類進歩の仮想敵「怨望」対策。王道の名言ぽい。

 

たとえば父母の指図を聴かざる道楽息子へみだりに銭を与えて、その遊治放蕩を逞しゅうせしむるは、保護の世話は行き届きて指図の世話は行われざるものなり。子供は謹慎勉強して父母の命に従うといえども、この子供に衣服をも十分に給せずして無学文盲の苦界に陥らしむるは、指図の世話のみをなして保護の世話を怠るものなり。甲は不孝にして乙は不慈なり。ともにこれを人間の悪事と言うべし。(14編)

諭吉せんせいは独立した個人間で支配の関係を否定しているが、親子関係だけはどうしたって支配構造にならざるをえない。そういう意味で、ここではめずらしく支配関係の中のコミュニケーションノウハウについて語っている。子に独立を説くよりも、こういった支配関係の中のささやかなコミュニケーションにこそ平和安寧の鍵があると個人的には思う。

 

世間の愚民、人の言を信じ、人の書を信じ、小説を信じ、風聞を信じ、神仏を信じ、卜筮を信じ、父母の大病に按摩の説を信じて草根木皮を用い、娘の縁談に家相見の指図を信じて良夫を失い、熱病に医師を招かずして念仏を申すは阿弥陀如来を信ずるがためなり。三七日の断食に落命するは不動明王を信ずるがゆえなり。(15編)

ヤレヤレ愚民はすぐに信じるという毒舌。

 

今日世の有様を見るにあるいは傲慢不遜にして人に厭わるる者あり、あるいは人に勝つことを欲して人に厭わるる者あり、あるいは人に多を求めて人に厭わるる者あり、あるいは人を誹謗して人に厭わるる者あり。いずれもみな人に対して比較するところを失い、己が高尚なる心事をもって標的となし、これに照らすにほかの働きをもってして、その際に恍惚たる想像をつくり、もって人に厭わるるの端を開き、ついにみずから人を避けて独歩孤立の苦界に陥る者なり。(16編)

プライドの高い無能を容赦なくぶった切る諭吉。そのあとええこと言ってるから自分で確認してみて。

 

およそ人間世界に人望の大小軽重あれども、かりそめにも人にあてにせらるる人にあらざれば、なんの用にも立たぬものなり。(中略)

人を当てにせざるはその人を疑えばなり。人を疑えば際限もあらず。目付に目をつけるがために目付を置き、監察を監察するがために監察を命じ、結局なんの取り締まりにもならずしていたずらに人の気配を損じたるの奇談は、古今にその例はなはだ多し(17編)

交際術。能力のある人ほど他人のことを信用しない傾向があるように思う。この後、信用できる人物の見分け方について書いている。

キリがないからこれくらいにしておきます。明治の啓蒙書は面白いの多いので、以後また紹介するかもしれない。